Arashiology

大野担の嵐オタクによる嵐論

第九章

Blind love, the way they love him アンリーという存在

 

五人五様の魅力を持つ嵐には、老若男女様々なファンがいる。

五人一緒にいる時の楽しそうな雰囲気が好きな人、特定のコンビにやたら萌える人、自分の推しメンバーしか目に入らない人。

 

嵐がグループで活動している以上、メンバーに個別のファンが付くのは当然である。チョコレートアソートの箱を買ったって、箱の中のお気に入りのチョコレートには誰でも序列があるだろう。アイドルグループというのはシビアなもので、ファンによる序列が露骨に見えてしまう「センター」というシステムすらあるが、幸い、嵐には「センター」も「エース」もなく、ダンスのフォーメーションでも各メンバーがバランスよくセンターを務めている。私は事務所関係者ではないので真偽のほどは不明だが、嵐は各メンバーにほぼ均等に個別ファンが付いているのだそうだ。

 

「嵐が好き」と言う人は、普通に考えて、嵐という五つの味が入ったチョコレートアソートのパッケージ全体が好きなのだと思う。しかし、たとえお茶の間のテレビでしか嵐を見ていなくても、嵐メンバーの顔と名前が一致し、それぞれのイメージを把握し、差別化が始まれば、「この箱の中ではこの味が一番好き」というお気に入りが生まれる。もちろん、優劣つけがたく全部好きな人も、途中で一番好きな味が変わった人も、その時々の気分で一番好きが変わる人もいるだろう。そして、一番好きな味以外は好きじゃないという人もいる。

 

一番好きな味以外は好きじゃない、むしろ嫌いだ、というファンがいわゆる「アンリー」である。特定メンバー「オンリー」のファンで、他のメンバーの「アンチ」であることから、そう呼ばれるらしい。いつ、誰がこの言葉を使い始めたのかは分からないが、私の記憶では、某通販サイトのレビュー欄あたりから始まったように思う。

 

なお、グループ全体のファンは「ゴコイチ」や「箱推し」、特定メンバーだけのファンは「オンリー」、そしてグループやメンバーに難癖をつける非ファンは「アンチ」と呼ばれる。「アンリー」は「アンチ」を含む造語であるから、そこには「ファンに非ず」という非難が含まれており、「アンリー」と呼ばれる人々が自分のことを「アンリー」と自称することはない。

 

好きな味のチョコレートを買いたいだけなのに、別段好きでもない味のチョコレートと一緒でなければ買えないとしたら、それはちょっとした苦痛だろう。それでも買いたい場合は、好きでもない味のチョコレートを我慢して食べるか、諦めて捨てるしかない。実際、「オンリー」ファンの人達はそうしているのだと思われる。だから彼らは、「ばら売りしてくれたらいいのになあ」と嘆く。

 

私はパッケージも含めて好きな大野担だが、それでもこういう「オンリー」ファンの気持ちは理解できる。2017年の「忍びの国」キャンペーンが終わり、大野くんのソロ仕事がふっつりなくなった頃は、他のメンバーの仕事情報が入るたびに、理不尽な焦燥や嫉妬を感じつつ、自担のソロ仕事のニュースを「今日こそは」と待ちわびていた。実際、大野くんはこの時、自分の退所も含めた話し合いをしていて、各所に迷惑をかける可能性がある以上、ソロ仕事を入れることなどできるはずもなかったわけだが、事情を知らない一介のオタクとしては、「グループ」という売り方の罪深さを感じざるを得なかった。自分が推しているのが単独の俳優や歌手であったら、露出が少なくても焦らず待っていられただろうに、と。

 

アイドルオタクのつらいところはそこである。「グループ」のなかに、ひとたび推しができてしまうと、それを全力で推さずにはいられない。自分の推しに高い視聴率をとらせてあげたい、高い売り上げを記録させてあげたい、高い評価を得させてあげたい。そこには往々にして、「他のメンバーより」という比較級が付いてしまう。嵐がどんなに平和主義で、本人たちが競わないようにしていても、「グループ」で「ビジネス」をしているからには、必ず何らかの数字が付いて回る。中には比較競争に勝たせることに推しがいを感じるファンもいるようだが、そこで比較のつらさを感じたくないのならば、箱推しに振り切るか、他のメンバーを目に入れないようにするしかない。そういう意味では、「オンリー」はある種の自衛手段なのかもしれない。

 

他方、「アンリー」の人々は、「ばら売りしてくれ」と主張するだけにとどまらない。箱で買ったアソートチョコレートに嫌いな味が入っていたら、黙って捨てればいいだけなのに、彼らはそのどこが嫌いかを懇切丁寧に説明し、あまつさえぐちゃぐちゃに踏み潰して、「こんなに嫌いなの」と喧伝する。彼らの目には、自担は崇拝すべき完璧な存在で、他のメンバーは無自覚にあるいは悪意を持って自担の足を引っ張っているように映るらしい。だから彼らは自担を害するものを取り除こうと必死で叩くのだろう。中には、叩くことに快感を覚え、応援より攻撃が目的となってしまった「アンリー」もいるが、こうなるともはやただの「アンチ」である。

 

アイドルとは商品であり、ひとたび市場に提供されれば、それにお金を払ったファンがどう扱おうが、アイドルは関与できない。妄想のオカズにしようが、等身大の人形を作って一緒に寝ようが、犯罪にならない限りファンの自由である。そして、どんなふうに応援しようが、それもファンの自由である。ファンが他のファンにどうこう言える立場にあるわけでもない。しかし、盲愛と独善に凝り固まった「アンリー」は、他担から疎まれ、同じメンバーを推す同担からも異端の存在として遠巻きにされていることだけは間違いない。人間関係とは、自分自身のリフレクションなのだ。

 

このテーマを考えるに当たって、自担に言及したくはなかったのだが、正直なところ、「オンリー」や「アンリー」は大野担に多い。よって、ここまでの内容も、大野担を念頭に書いてきた。どうして大野担は極端に走りがちなのか。もっと言えば、なぜ「ばら売り」をことさら希望するのか。なぜ他のメンバーが目に入らないように「オンリー」になったり、他のメンバーを攻撃する「アンリー」になったりするのか。それはおそらく、大野担が求めるアウトプットに対して、供給が少ないからである。どっかの女優が「ゴリ押しでもうお腹一杯」と言われるのとは逆で、ファンはお腹一杯になりたいのに、いつまでたってもお腹一杯にさせてくれない。大野くんはよく、「なんで僕なの?」と自分を過小評価するが、そして自分の魅力に自覚がないところも魅力ではあるが、暴走寸前までお腹を空かせて待っているファンがそれだけ多いのである。

 

ただでさえ食べ足りない大野担に、これから更なる飢餓が襲ってくる。

ファンに与えられた選択肢は、細々と食いつないで飢餓に耐えるか、餓死して退場するか。

それでもファンは、「耐える」という選択肢が残ったことを感謝するしかない。罪な自担である。

2019/4/2