Arashiology

大野担の嵐オタクによる嵐論

第十一章

The Universe in his brain 大野くんの頭の中

 

これまでに、ジャニーズをやめようと思っていたと何度も発言してきた大野くん。

そのたびに、デビューが決まったり、10周年をお祝いされたりして、自分の気持ちを収めて状況を受け入れてきた彼が、ついに行動に出た。

 

嵐はデビューから20年間で「国民的」と冠が付くほど膨張し、翔くんが言うように、もはや単なるグループ名を越えて、嵐というプロジェクトになっているので、彼の決断が起こした余波は、それはものすごいものだった。実際、ファンはまだその衝撃を受け止めきれていないし、2020年末の活動休止までに第二波、第三波もあるだろう。

 

大野くんが、自分の行動によってどの程度の衝撃が起きると想像していたのかは分からないが、少なくとも他のメンバーはその巨大な衝撃をほぼ正確に予想して時間もかけたし、衝撃を和らげるための対策を二重三重に用意してくれていた。彼らの周到さには頭が下がるし、感謝するしかない。

 

なぜ、大野くんはこれほどまでに大きな決断をしたのか。彼は記者会見で、決断に至るまでの経緯や心境を語ってくれたが、具体的に、なぜ嵐をやめようと思ったのかという理由は明かさなかった。おそらく、その点については今後も語らないだろうから、ここで、大野担オタクは大野くんの頭の中に思いを巡らせてみようと思う。

 

そもそも、大野くんの頭の中は謎だ。

いや、誰だって他人の頭の中なんて分からないけれど、翔くんがかつて「大野さんの目で世界を見てみたい」(ニュアンス)と言ったように、彼の目には自分とは違う世界が映っているのかもしれない、と思わせるものがある。他のメンバーの言動は、「私ならこうする」という範囲からあまり外れていないが、大野くんはそうではない。今回の決断にしても、誰もが目指す「アイドル界の頂点」をここで手放すなんて、私だったら考えないだろう。

 

頭の中身を学力的に測るならば、大野くんは勉強ができない。

しかし、テレビの船舶免許取得企画で、勉強が「できない」わけではないことが明らかになったので、これは正しくない。正確に言えば、「学校教育で得る知識をあまり集積していない」だけだ。それは、大野くん自身が言っているように、授業もろくに聞かずに教科書に落書きばかりしていたからだろう。自信を持ってテストの答案を埋めたことなんてなかった、割り算ができなくて学校から泣いて帰ったというエピソードも、いくつかの媒体で本人が語っている。大野くんのラジオでは、「今日のひと言」として、しばしば四字熟語や慣用句が紹介されたが、きわめて一般的な慣用句すら聞いたことがないと大野くんが話すので、そのたびに私は度肝を抜かれた。この人ってバカなのかな?と思ったことも一度や二度ではないが、大野くんのアウトプットを見るたびに、どうもそうではないらしいと考えを改めてきた。

 

私が思うに、大野くんの思考は実はかなり深い。お芝居の役作りを見ていても、脚本や人物をかなり深いところまで掘り下げて理解しているのが分かるし、これまでの人生で経験してきた事物についても、深く考えてその精髄を自分のものにしている。

 

大野くんはよく「無になっている」とか「ぼーっとしている」と言うが、これは恐らく顕在意識のうえのことだ。例えば、大野くんが絵を描いている時、顕在意識ではどこにこの色を置こうか、どこに線を引こうか考えているはずだが、同時に潜在意識では別のことを考えているのだと思う。絵を描く人ならそういう感覚が分かるかもしれない。これは釣りをしていても、踊っていても同じだと想像する。そういう時間に潜在意識で考えていることが、大野くん本来の思考なのだろう。

 

インタビュー中の雑談で、「(じっと動かない時は)何を考えてるんですか?」、「時間が止まってるの?」とメンバーに聞かれた大野くんが、「止まってるんだろうね。ということで、俺も(生まれ変わるなら)自分になってみたい」と語ったことがある。それは、顕在意識が前面に出ている時の大野くんが、潜在意識の活動を自覚していないからだろう。

 

潜在意識で彼が考えているのは、時には宇宙についてとか、昆虫の構造についてとか、色々あるだろうが、最もよく考えているように思えるのは人間や人生についてだ。大野くんと仕事をしたテレビプロデューサーが、「彼はよく他人を観察している」と言っていたが、大野くんはそうやって他人を観察しながら、潜在意識のなかでその人の本質を探っているような気がする。だから私は、大野くんがメンバーのことを直感的かつ本質的にとらえていると感じるのだ。

 

大野くんの潜在意識の世界は、非常に哲学的なものだと思う。宇宙的と言ってもいいかもしれない。例えば、「時間」という目に見えない概念を考えるとき、人によっては川をイメージしたり、螺旋をイメージしたり、無限に落ちる砂時計をイメージしたりする。こうしたイメージのようなものが、大野くんの潜在意識のなかに漂っている気がするのだ。それを言葉に出して説明するのは非常に高度なことで、まさに学問としての哲学に近い。大野くんはそれを表現する語彙を持たないが、神様は、彼に「言葉で表現する能力」の代わりに、「身体で表現する能力」を与えた。だから、大野くんからアウトプットされるアート作品やダンスやお芝居は、彼の潜在意識の一端なのだろうと思う。彼が人間や人生についてよく考えているのではないかと想像するのも、彼の作品に「人間」が多いからだ。

 

そうやってアウトプットしてきた大野くんが、「しばらく前から絵が描けない」と言っていた。それは何を意味するのか。絵を描きながら顕在意識の下位にある意識層で自分と対話し、思考を深めていたのだとすれば、その時間が無くなったということだ。自分の意識世界をノックしても、何も出てこない。それは、大野くんの自我がぼやけてきたからではないかと思う。

 

彼のお芝居を考察するに当たり、大野くんの自我は無色透明だと私は書いた。無色透明の自我を持つからこそ、どんな役にも染まることができるのだと。無色透明であること、それ自体が大野くんの個性であり、自我であるが、それはとりもなおさず、自我がぼやけやすいということでもある。

 

これも先に書いたが、アイドルという仕事は、プライベートの自分とアイドルとしての自分に線を引かなければ続けるのは難しい。大野くんも、もちろんそうしているだろうが、本質的に素直な彼には、二つの自分を使い分けることが苦痛なのだろう。「VS嵐」のハワイスペシャルで、彼はテレビに映していいのかと思うくらいの泣き顔を見せてくれた。ファンはそれが嬉しかったし、感動もしたのだが、自分を使い分けていたら、あんな風に無防備な顔をテレビに晒さないだろう。

 

使い分けが苦手である以上、プライベートの自分とアイドルとしての自分の境界線も曖昧になる。その結果、アイドルとして求められている自分に引きずられ、彼本来の自我がぼやけてきたのではないか、と私は考えている。奇しくも、休止発表直後の「VS嵐」で、ゲストの坂口健太郎くんから「どの瞬間から嵐なんですか?」と、プライベートとの切り替えについて質問があった。大野くんは「いや、(嵐が)抜けないよね。だから俺の素はどこ?みたいな。大野智って何?みたいな」と答えている。これが、近年の大野くんだったのではないだろうか。

 

自分の自我を見失うというのは、自分が何者か分からないということだ。

記憶喪失でもないのに自分が何者か分からないとしたら、それは恐ろしいだろう。

だから余計に、大野くんは人間や人生について考えたのではないだろうか。

今回の決断の背景に、私はそんな深い思考を見た。

2019/4/5