Arashiology

大野担の嵐オタクによる嵐論

附章三

All I can do is wait and see できることは、見守ることだけ

 

21年目の各プロジェクトに加えて、ニノの結婚にまつわるゴシップ、不仲説といった(無用の)話題を振りまくなか、嵐は「5×20」コンサートオーラス前の記者会見で、さらにスケールの大きいプロジェクトを発表した。「A-RA-SHIRebornMVでのアニメONE PIECEとのコラボ、Netflixでの嵐ドキュメンタリー「ARASHI's Diary Voyage」の世界配信、「日中文化スポーツ交流推進年親善大使」就任などである。今を時めく米津玄師とのコラボで、NHKのオリンピックテーマ曲を担当することも明らかになった。

 

こうした華々しいプロジェクトをもってしても、私の嵐への熱量は回復しなかった。ONE PIECEは原作もアニメも好きなのだが、コラボMVはいまひとつピンとこなかったし、ネトフリのドキュメンタリーはまだ観ていないが、観た人の感想によれば、積極的に見たい感じでもないらしい。活動休止に関しては、当時の記者会見で嵐が語った以上のことを聞きたくないという気持ちもある。新たな情報が出ることで、せっかく整理した自分の気持ちを再び乱されるのが嫌なのだ。嵐はこれ以上、何を見せるつもりなのだろう。

 

そんな中、久々に嵐っていいなあと思わせてくれたのは、「嵐にしやがれ」の正月スペシャルだった。大野丸の企画に相葉ちゃんが登場して、「(2020年を嵐として)走り切りました、(その後)どうするの?」と直球すぎる質問を投げかけたのだ。しかしそこは天然コンビ、「急に会わなくなるの、ちょっと寂しい」「(2021年の11日は)五人で飲みたいね」といういかにも嵐らしい会話に落ち着く。そして二人は、「二十年 智(雅紀)といれて 幸せだ」という締めの川柳をお互いに詠んでハグを交わすのである。ワイプに映る翔くんの表情がもはやオカンのようだ。やはり、嵐の空気を作っているのはこの二人の妖精さんに違いない。

 

結婚を発表して、ニノがバッシングにダメージを受けていただろう時期、そしてメンバーもギクシャクしているとされた時期、嵐の空気を和ませてくれたのは相葉ちゃんだったのだと思う。口数が少なくなったニノに積極的に話を振ったり、大野くんを巻き込んでニノをマッスル部に入れたりと、明るく自然に振舞ってくれたことが容易に想像できる。嵐に相葉ちゃんがいてくれてよかった。たかがバッシングくらいで、メンバーが孤立するような嵐でなくてよかった。おかげで、一時はぎこちなく見えた嵐だが、時間が経つにつれていつもの空気感が戻ってきた。私も、どうやらニノを嫌いにならずに済んだし、嵐から離れずに済んだ。

 

2020年が明け、いよいよ嵐の活動もカウントダウンに入った。最後のお正月特大号雑誌、最後のお正月特番。今まで当たり前に続くと思っていた恒例行事に、「最後の」が付く一年だ。嵐が活動休止を発表してから丸一年が経ち、改めて激動の2019年を振り返ってみると、どうやら嵐は2019113日、つまり嵐満20歳の誕生日をひとつの区切りと考えていたようだ。

 

この日を境に、嵐はそれまで温めてきたことを一気に解放した。プロジェクトは、嵐の活動休止が発表された時から始まり、私たちが知らないあいだずっと水面下で構想が練られ、話し合いが行われ、準備が進んでいたのだろう。温めてきたのは、SNS解禁であり、デジタル配信であり、動画配信(You Tube、ネトフリ)であり、海外訪問であり、海外公演である。他にもまだあるのかもしれない。こうした新しいチャレンジをする裏には様々な理由があるはずだ。例えば、活動休止中も嵐の存在感を示すためだとか、事務所や後輩のために検証データを残すためだとか・・・。しかし、私は同時に、「残された期間を、これまでの活動を振り返るだけの感傷的な時間にしたくない」という嵐の意志も強く感じるのだ。

 

思うに、彼らが20年間を振り返る作業は、「5×20」という曲やMVを作った時点で終了していたのではないだろうか。嵐のスケジュールは年単位で決まっているし、私たちがその成果を受け取る時には、彼らはもうずっと先を見ている。松潤113日の記者会見で、21年目のテーマは「Reborn」だと言っていた。Reborn、つまり再生だ。恐らく、嵐の20年を宝箱に入れる作業は「5×20」の制作をもって終わり、嵐は前を向いて次のフェーズを歩き始めている。そしてその先には、活動休止後も続いていく彼ら一人一人の道がある。

 

ニノが結婚報告で、「20年という区切り」とコメントした時、ファンは「5×20のツアー中なのに、どこが区切りなんだ」と非難囂々だったが、彼らのなかでは、確かにここが区切りだったのではないか。また、彼が「メンバーの反対を押し切って結婚を強行した」と糾弾するファンもいたが、実際はきちんと話し合っていて、113日が区切りだというメンバーの共通認識があったからこそ、1111日の入籍が妥協点となったのではないか。大野担の中には、「(結婚した)ニノも(熱愛報道があった)翔くんも、自分だって嵐とは別にやりたいことがあったのに、嵐活動休止の責任を大野くんひとりに負わせた」と非難する意見もある。しかし、大野くんがきっかけをつくり、嵐を畳むという選択肢が現実味を帯びてきたからこそ、メンバーは自分自身の人生に向き合わざるを得なくなったのだと私は思う。ニノが結婚を意識したのはその流れだろうし、翔くんが恋愛を解禁したとすれば、それも活動休止後の人生を見ているからだろう。そして、そうなることこそが、大野くんが嵐を畳みたいと望んだ理由のひとつなのではないだろうか。

 

私が嵐の新しいプロジェクトやニノの結婚を受け入れられなかったのは、生まれ変わって次のフェーズを歩き始めた嵐と自分の気持ちにギャップが生じたからだ。「あと一年で嵐が見られなくなってしまう」という感傷から離れられない私が、不満を感じ、今までのような熱量で嵐を応援できないのは、新しい嵐に気持ちが追い付かないからだ。

 

しかしそんな中、大野担が救われるのは、大野くんがどちらかというとファンの感傷に寄り添ってくれることだ。恐らく、「新しい嵐」というグランドデザインは松潤と翔くんが中心になって描いていて、もちろんそれはメンバー全員が納得したうえでの総意なのだが、大野くんの場合、自分が休止を言い出した責任もあり、たとえ「新しい嵐」に違和感があっても、メンバーの意向に沿うことが使命を果たすことだと腹をくくっているフシがある。しかし、他のメンバーは新しい嵐として2021年からも活動を続けるが、大野くんは2020年末で嵐を畳むのだ。彼の視線はその先ではなく、2020年末に向いているはずで、だからこそファンの感傷にシンクロできるのだろう。

 

嵐は、「2020年末まで僕らに付いてきて来てください」と言う。しかし、これまで追いかけてきた、私の好きな嵐が形を変えつつあることはもう明白だ。それに気付いてしまった以上、これまでと同じように追いかけることはできそうにない。いや、同じように追いかけなくてもいいのだ、多分。

 

嵐があと一年間、私たちに何を見せようとしているかは分からない。ネトフリのドキュメンタリーを観た人の感想から想像するに、彼らはこれまで20年間のキラキラした嵐を脱ぎ捨て、リアルな一人の人間としての姿を見せようとしているのではないだろうか。キラキラした砂の城を崩して、ただの砂浜に戻すように。それがアイドルとして正解なのかは分からないし、彼らが次のステージに踏み出すためには必要な荒療治なのかもしれない。いずれにせよ、答えは一年後にしか分からない。

ここまで嵐を見続けてきた者として、その答えだけは見届けたい。色々なことに気付かないふりはもうできないが、走り切る嵐を見守り、見届けよう。

そして一年後、私は何を思うのだろう。

2020/2/3

附章二

But, he hasn't changed at all けれど、彼は何も変わっていない

 

嵐の活動休止までのあいだに、第二、第三の衝撃波があるかもしれないとは思っていたが、こんな形でくるとは思わなかった。

 

20191112日、ニノが結婚を発表した。

 

発表当初、私は、ニノが完全に外堀を埋められて「結婚に追い込まれた」のではないかと想像した。ごく当たり前に交際がスタートしたものの、熱愛報道後、ファンの手で相手女性の「匂わせ」が発覚し、女性がものすごくバッシングを受けた。それで、バッシングに傷付いた相手を放り出すわけにもいかず、交際を継続した結果、相手は精神的ダメージから仕事を辞めた。そうこうしているうちに相手の女性もそれなりに年齢を重ねてくる。こういう状況のなか、健気にニノを待ち続け、結婚や出産を望む女性なら貴重であろう数年間、そしてキャリアまでニノに捧げた彼女。そんな相手を捨てるわけにもいかず、まさに「けじめをつける」ために結婚せざるを得なかったのではないか、と。

 

各種報道から、私はどうしても相手の女性に良いイメージが持てず、いくら熱愛報道が繰り返されても、この女性をニノの本命彼女とは思っていなかった。そんな相手とついに結婚したと知った私の感想は、「健気を装って重たい女だなあ。しかも実はしたたかで計算高い。ニノが後になって結婚を後悔しなければいいけど・・・」という感じだった。正直なところ、おめでとうと言いたいとはまったく思わなかった。

 

報道やSNSで私以外の人々の反応も見たが、案の定、ニノ担からファンではない一般人まで微妙なコメントが多かった。晴れ晴れとおめでとうと言っていたのは、大野くんオンリー担のような、要は「ニノの結婚なんてどうでもいい」人々だけだった気がする。嵐ファンから特に多かったのは、結婚するのは仕方ないが、なぜこの相手なのか、なぜ今のこのタイミングなのか、という声だ。嵐が21年目の新プロジェクトを発表してファンが盛り上がっていた矢先であり、20周年を祝う「5×20」コンサートをまだ数回残していたからだ。二日後から始まる札幌コンサートに参戦するべく、遠征準備をしていたファンはいったいどんな気持ちでニノを見ればいいのか。そういう戸惑い、嘆き、怒り、恨み、辛みでファンの巷は休止宣言以来の阿鼻叫喚に陥り、嵐のSNSも、祝福だけでなく、呪詛の言葉や担降り宣言があふれかえった。そういうファンの言葉はよく理解できる。

 

以前の章にも書いたが、嵐のメンバーが結婚するということは、「嵐以上に大切な人ができました」と宣言することだと私は考えている。いつかは受け入れなければならないと分かっていても、私はまだそれを受け入れる準備ができていなかった。少なくとも、嵐が2020年末にひと区切りつけるまでは、メンバーにとって一番大切なものは嵐であって欲しかったし、キラキラした五角形のまま、嵐を宝箱にしまいたかった。その期待が裏切られたという失望が怒りになってニノに向いた、というのが第一報から数日後の私の状態だった。

 

その後、相葉ちゃんと翔くんからの祝福メッセージが「微妙」だとか、松潤がニノに怒っているとか、相葉ちゃん以外はニノの結婚に反対していたとか、面白おかしく書き立てたゴシップが次々に投下された。メンバーはいちいち否定も肯定もしないため、ファンはそういう根拠の曖昧な報道に振り回されて疑心暗鬼になった。実際、そういう気持ちで見ていると、嵐が本当にギクシャクしているように見えてくるから不思議だ。ファンクラブ向けの告知動画でも、他のメンバーが自然にスキンシップしているのに、ニノだけはメンバーに触れるのを遠慮して、ぎこちなくなっているように見えた。今にして思えば、さすがのニノも各種報道に心が折れかけ、迷惑をかけたことをメンバーに申し訳なく思っていた面もあるのかなと思う。そういうニノを見て、私は怒りを感じるより、嵐の絆を信じさせてほしいと祈るような気持ちになってきた。たった一人の女性の登場で、十代の頃から20年以上、ファンの知らない景色も感情も共にしてきた五人の絆が壊れたというなら、私が好きになった嵐、私が六人目になりたいと思う嵐、ファンの自慢だった嵐は、たぶんもう存在しないのだ。

 

新プロジェクトで嵐を遠く感じ、ニノの件で嵐の絆を信じられなくなったことで、私の嵐に対する熱量は確実に下がった。しかし皮肉にも、熱量が下がったことで、ニノの結婚を冷静に捉えることもできるようになった。

 

真偽は不明ながら、ニノには過去にも何度か別の熱愛報道があった。だがその都度、相手と別れさせられたり、ニノのほうから別れたりしてきたらしい。当然、今度のお相手についても、熱愛発覚後に事務所からは別れるよう指示されたと思われるが、事務所が反対しても、彼女がどれだけファンにバッシングされても、何度ツーショットを撮られても、ニノは別れなかったのだ。もちろん、嵐の存在感が増して誰も嵐に命令できなくなったとか、ジャニー社長が一定の年齢を超えたタレントの結婚を容認する発言をしたとか、以前と違う状況もあるだろうが、少なくともニノにとって彼女は、逆風に耐えて5年以上付き合う価値のある女性だったということである。ニノの眼鏡に適わなければ、逆風が吹いた時点であっさり別れていたはずで、これは厳然とした事実だ。

 

週刊誌情報なので鵜呑みにはできないが、結婚発表よりだいぶ前に、ニノが結婚したいと事務所に直談判したという報道もあったし、木村(拓哉)先輩に相談を持ち掛けたという報道もあった。それが事実なら、ニノは結婚に背中を押してほしかったのだと推測される。人気絶頂期に強行突破で結婚した木村先輩に結婚を相談すれば、「辛いこともあったが、今は幸せにやっている」とアドバイスされるに違いないからだ。つまり、ニノは外堀を埋められて「結婚に追い込まれた」のではなく、結婚したかったから結婚したのだ。

 

以前、ニノがラジオで、「嵐5人でゾンビと戦うとしたら、どの順番で立ち向かいますか?」というファンからの質問に答えたことがあった。これに対して、ニノは縦一列に並ぶなら一番前がいいと言った。最終的にゾンビに噛まれてみんな死にます、となったときに、(他のメンバーに死なれて)4回信じられないほど悲しむくらいだったら、先に、流れでそのまま逝きたいと。ニノはいつもシニカルな言い回しをする人だが、言葉の中にたまに本音がにじむ。これもあくまで冗談っぽく語っているが、「メンバーが死ぬ姿を見るくらいなら、自分が死んだほうがいい」という彼の究極の本音ではないだろうか。

 

嵐愛が深く、嵐に関してはどこまでも利他的なニノは、しばしば、自分を含めない4人を「嵐の人たち」と呼ぶ。自分も嵐のメンバーであることを忘れて、嵐の一番身近にいるスタッフのように語ることがあるのだ。ゾンビの話もそうだが、思うに、ニノは嵐のことは何よりも大切に思っているが、(自分がその嵐であるにも関わらず)自分自身にはまるで無頓着なのではないか。嵐の活動休止発表まで、その情報が一切洩れなかったことを誇らしげに語る一方で、自分の熱愛情報や結婚情報は漏れるにまかせているのもそうだ。そんなニノの生活から嵐がなくなったら、ニノはどうなってしまうのだろう。これは私の想像だが、大野くんが嵐を畳みたいと申し出て、嵐がなくなるかもしれないとなった時、ニノは糸が切れたようになったのではなかろうか。そして、戻る場所を失った凧のようになったニノを、すでに交際していた彼女が「それならここに居ればいい」と地上に繋ぎとめたのではないだろうか。

 

私は、ニノが結婚した相手の人となりをよく知らない。しかし、もし彼女が「あなたが結婚できる状態になるまで待つ」と言ったら、ニノは嵐が活動休止するまで結婚しなかったかもしれない。ニノが(恐らくは嵐を畳む話し合いが始まったことで)結婚を意識したのを十分に分かったうえで、彼女は「結婚できないなら別れる」と言ったのだろうと私は想像する。この年齢の女性であれば当然の発言だし、自分のことに無頓着なニノが、アイドルにはリスクでしかない結婚を、わざわざ事務所に掛け合ったという背後には、女性の強い意志を感じるからだ。入籍日が令和11111日というのも、ニノの発想とは思えない。彼女は恐らく頭の回転が速く、したたかで、しっかりした女性なのだろう。黙っていれば何も進まないであろうニノとの結婚をてきぱきと進めて、ついに現実のものにしてしまった。そしてニノは、そういう彼女を、嵐の活動休止後も含めた人生のパートナーとして必要としたのだろう。

 

結婚発表から二ヶ月ほど経って、私はようやくそんな風にニノの結婚を捉えることができるようになった。結婚の経緯はあくまで私の想像に過ぎないが、「嵐の20年より彼女との人生を選んだ」わけではないと今は思える。多分、ニノにとって嵐が大切なことに一ミリの変わりもない。ただ、ニノの大切なものの中に、彼女が新たに加わったということなのだろう。この先、その大切なものの比重が変わっていく可能性はあるけれど。

2020/2/1

附章一

The world is no longer the same すべてが変わってしまった

 

2019127日、嵐が衝撃的な発表をした日からほぼ一年が過ぎた。

振り返ってみれば、長かった気もするし、あっという間だった気もするが、この一年で嵐の状況も自分の気持ちもずいぶん変化した。20周年イヤーが終わって活動休止までのカウントダウンが始まったこのタイミングで、今の私の気持ちを整理してみようと思う。

 

去年の今頃は、まだ嵐の活動休止を受け止められずに悶々としていた。発表から数か月を費やしてこんな論文もどきを書き上げ、ようやく自分の気持ちに整理が付いた。最後のチャンスかもしれないと覚悟を決めて、片道24時間かけて、「5×20」コンサートにも足を運んだ。

 

秋には唐突にYou Tubeに嵐の公式チャンネルが登場し、何が起こっているのかとファンがざわつくなか、そのYou Tubeライブ配信で革命的な新プロジェクトが次々に発表された。これが113日、嵐20歳の誕生日のことである。ここで怒涛のように明かされた新プロジェクトとは、SNS公式アカウントの開設、嵐既存楽曲のデジタル配信開始、新曲のデジタル配信、「JET STORM」第二弾の実施、「5×20」コンサートオーラスのライブビューイング実施、国立競技場でのコンサート開催、北京でのコンサート開催・・・というもので、あまりの情報量と衝撃度に、ネット界隈は祭り状態に陥った。しかも、その日の夜(日本時間)にはさっそくインスタライブで、嵐メンバーが嵐の誕生日を祝うというオマケ付きだ。

 

数日後の119日、嵐は国民祭典で天皇皇后両陛下に奉祝曲を捧げ、その足でプライベートジェットに乗り込んで、翌10日から「JET STORM」と銘打ったアジア四都市訪問を敢行した。「JET STORM」中は、後に翔くんが「まるでギャルみたいだった」と述懐したとおり、松潤が解禁したばかりのSNSでひっきりなしに写真やメッセージを投稿してくれた。嵐とSNSの組み合わせは非常に新鮮だったので、一日中スマホに貼りついていたというファンも少なくなかっただろう。そして、国民祭典や「JET STORM」の興奮も冷めやらぬ1112日、ニノの結婚発表という特大の爆弾も投下されたのだった。

 

今にして思えば、嵐が満20歳になる113日に照準を合わせて、ずいぶん前から膨大な話し合いと準備が行われてきたのだろう。しかし、たかだか10日間でファンを取り巻く状況は一変し、一年前には想像もつかない世界になってしまった。

 

楽曲のダウンロード&サブスク配信がスタートしたことで、海外組がタイムラグなしに新曲を聞けるようになったのは非常にありがたい。新曲「Turning Up」の後で、「A-RA-SHIReborn」や「Turning UpR3HAB Remix)」を次々にリリースしたこと、また、時代の流れからいっても、デジタル配信のスピード感やそれを告知するSNSは今の嵐に必須だったはずだ。ただ、どうしても一曲一曲が軽くなった感は否めない。「A-RA-SHIReborn」や「Turning UpR3HAB Remix)」は、今までだったらCDのボーナストラックになるような曲だと思うのは私だけだろうか。物理的な手間やコストがかからない分、一曲一曲は安くなり、一瞬で手に入るようにはなったが、ネット通販の争奪戦を勝ち抜いて初回盤の予約を入れ、パソコンやスマホに取り込んで聞きこむCDとは、同じモチベーションで聞くことができないのだ。完全新曲ではなく、既存曲のリプロダクション版だから余計にそう思うのかもしれないが、別にダウンロード(購入)しなくてもいいか、という気になってしまう。

 

SNSに関しては、嵐が公式アカウントを開設したことで、これまでは見る専門だった私もついに重い腰を上げてアカウントを作った。今のところ、嵐関係の情報収集と思考を整理するためのソースとしてしか利用していないけれど、SNSの世界に足を踏み入れるきっかけをくれたことには感謝したい。思えばこの10年、私が何か新しいことに挑戦しようと決心するきっかけは、いつも嵐だった。それだけでも私が嵐を好きになった意味はある。

 

とは言え、嵐のSNSの使い方には物申したい。

SNS解禁当日のインスタライブは、視聴者のリクエストに応えてスクショタイムを作るなど、SNSの可能性を感じさせてくれるものだったが、その後、インスタはもっぱら告知動画やストーリーズをシェアする場として使われている。ストーリーズには、嵐メンバーのタイムリーな「〇〇なう」が写っていることもあれば、そのタイミングにちょうどいい写真がない場合は、過去に撮った面白写真が上がることもある。ファンを楽しませるために写真を選んでくれているのは嬉しいが、本来SNSなんて、「〇〇したよ!」とか「面白いから見て!」「これが好き!」とかいう自己満足のツールなので、もっと気負わずに投稿したらいいと思う。どんなにくだらない内容でも、本人が写っていなくても、それを投稿しているのが嵐であれば、ファンには十分価値があるのだから。

それでも、こまめにストーリーズがポストされるインスタはフォローする意味もあるが、ツイッターに至っては、告知と無難な投稿しか上がってこない。内容もインスタとほぼ同じだ。外国のファンに向けて英語を併記しているのも、リアルタイム感を損なう原因になっている。せっかくメンバーが選んだ写真やコメントなのに、翻訳者の手を経てポストされていると思うとどうにもよそよそしい。

大野くんは雑誌のインタビューか何かで、(自分たちの)インスタのコメントも見ていると言っていたが、何千ものコメントをひとつひとつ見るわけにもいかないだろうし、コメントの内容に反応するような投稿がメンバーから上がることもほぼない。現状、SNSを通じたインタラクティブなコミュニケーションというのはごく限られているのだ。

 

嵐がまだ試行錯誤しているのは分かっているが、正直なところ、五つものSNSアカウントは必要なかったように思う。「嵐をより身近に感じてほしい」と始めたSNSだが、インスタライブなど一部の交流を除き、現状ではどのSNSでも嵐を身近に感じることはできない。デジタル配信の楽曲にしろ、SNSの内容にしろ、21年目の新プロジェクトでは、嵐が世界のファンを意識しているのが感じられる分だけ、嵐が遠くなった気さえする。

2020/1/31

終章

Conclusion おわりに

 

解散という嵐の結論は、事務所に報告して話し合うなかで、休止という形に落ち着いた。

当初は、「休止と言っても、実質的に解散でしょ」という意見も多かったし、今でも、「実質的な解散」を前提としたウェブ記事をたまに見かける。

確かに、大野くんが活動休止中に何を思うかが分からない以上、休止から解散に至る可能性はゼロではない。もちろん活動を再開する可能性もゼロではない。

 

「嵐の宝箱の鍵は大野くんが持っている」とファンがツイートするように、嵐の復活は、今のところ大野くん次第だろう。では、大野くんは芸能界に戻ってくるだろうか。

 

大野担オタクの願望もだいぶ入っているが、私は、大野くんが芸能界に戻ってくる可能性はそこそこあると思っている。その根拠はいくつかある。まず、大野くんが「ビジュアルや体型をキープして、気を付けて休む」と言っていること。そして、「(退所じゃなくて)お休みでいいんじゃない?」という事務所の提案を受け入れたこと。さらに、翔くんが「再開はあります」と断言していること。

 

大野くんはすでに一般人の一生分くらいは稼いでいると思うが、活動休止時点でまだ40歳だ。ほかに夢中になれる仕事でも見つければ話は別だが、リタイアするには若すぎる。ストイックに人生の意味を追究してきた彼が、その年齢からリタイア生活に入ったら、時間を持て余すだろう。しかも、20年以上も芸能界で仕事をしてきた人が、他の仕事をゼロから始めようと思うだろうか。

 

芝居落ちのオタクとしては、また大野くんのお芝居が見たいのだけれど、少なくとも大野くんは、芸能活動を何年休止しても、ダンスだけはしたくなるのではないかと予想している。それが大野智の原点だから。

 

大野くんは会見で、「仕事に疲れちゃったとかではない」と言っていた。

彼が芸能活動を休むのは、南の島で昼寝をしたり、釣り三昧の生活をするためだと思っている人も多いようだが、少なくとも私は、彼が休むのは自我を取り戻すためだと考えている。だから、大野くんが「嵐の大野智」ではなく、ただの「大野智」になって、自分の足で歩いている感覚を取り戻し、これからも自分の足で歩いていくと確信できたら。その時には、きっと。

 

ただ、大野くんが芸能界に戻り、嵐が活動を再開するとしても、その嵐は「宝箱に入った嵐」とは違うものになるのではないだろうか。それぞれ年齢や経験を重ねて、今と違う状況で再会する嵐が、一度取っ払った制約を、再び自分たちに絡めるとは思えない。寂しいけれど、復活する嵐は肩を組んで並走する嵐ではなく、それぞれの道を交差させながら歩く嵐なのかもしれない。

 

お休みに入る嵐の「置き場所」を探して始めた私の考察も、ずいぶん長くなった。

ただ、嵐や大野くんが語らない部分を想像し、繋げる作業をしたことで、自分の中でごちゃごちゃしていた考えや気持ちはだいぶすっきりした。

 

私は、心の本棚に嵐の宝箱を置き、その隣に新しい嵐の置き場所を空けて待ってみようと思う。

大野くんが、嵐が戻ってきてくれる可能性がある限りは。

嵐が変わらず自分にとって魅力的である限りは。

まだ、先のことは分からないけれど。

 

願わくは、2020年末まで、ひとつの傷もつけずに嵐を宝箱に閉じ込められますように。

そして嵐にでっかい感謝を。

2019/4/9

第十二章

What made them decide that? 彼らは何を思って休止を決断したか

 

大野くんが嵐をやめようと決断した背景には、危機感があったと私は推測する。

それは、自我を見失いそうな危機感だ。

若い頃から常に違和感はあっただろうが、特に嵐がブレイクしてから、その危機感は加速していったのではないだろうか。例えるなら、「プライベートの自分」は自分の足で歩いているのに、「アイドルとしての自分」はリニアに乗って、ものすごいスピードでレール上を走っているような。彼はブレイク以降、嵐の状況を「足が地に着いていない感じ」と何度か語っているが、それはまさに現実を受け入れ切れない精神状態を表してはいないだろうか。リニアに乗っている自分が「大野智」なのだと受け入れようとしてみたが、自分の足で歩いている「大野智」をついに無視できなくなったのかもしれない。

 

当初、大野くんは自分だけ嵐をやめようと思っていたらしい。

自分自身の危機感が原因なら、他のメンバーを巻き込むわけにはいかないからだ。

翔くんが言ったように、メンバーに相談した時点で、大野くんの心はもう決まっていたと思う。他のメンバーは当然驚いたし、何とか嵐を続けられないのかと説得もしたと言っていたが、大野くんが翻意しない以上は、大野くんなしで嵐を継続する選択肢も考えただろう。

 

今にして思えば、それがちょうど2017年後半のことだ。当時彼らが準備を進めていた「untitled」のアルバムやツアーには、彼らが様々な検証を行い、葛藤した形跡がある。コンサートに参戦し、「untitled」ツアーは何か今までと違う気がしたと語るファンもいた。「untitled」に彼らが何かのメッセージを込めたのか、それは分からないが、少なくとも彼らが終わりを意識しながら作ったアルバム、そしてツアーであることは確かだ。

 

様々な可能性を探った結果、「やはり嵐は五人でなければならない、だったら解散しよう」という結論が一旦は出されたらしい。それは、バラエティ番組にせよ、CMにせよ、歌にせよ、コンサートにせよ、「四人の嵐」に現実的な違和感や不具合が予想されたからだろうし、ニノが言っていたように、「五人でいる、ずっといる」という言葉を嘘にしないためでもあっただろう。

 

嵐を解散するという結論に至ったとき、大野くんとしては複雑だったと思う。

「五人でなければ嵐じゃない」というメンバーの結論は嬉しくもあったろうが、自分だけが脱退するほうが、申し訳なさは何倍も薄かったはずだ。しかし、嵐が話し合って決めた以上、その罪悪感は自分が背負うべきものだと覚悟したのだろう。「リーダーさえやめたいなんて言い出さなければ…」とファンの恨みを一身に買うことも、当然予想しただろう。休止会見の大野くんは、すべて背負う覚悟を決めているように見えた。

 

それでもなお、「嵐をやめる」という決心を翻さなかったのは、自分を嵐から解放しなければ、自分が自分でなくなってしまうという危機感と同時に、嵐のことも嵐から解放しなければならないという冷静な視点があったように思う。ファンがこんなツイートをしていた。「大野くんは若い頃からずっと休みたかっただろうけど、大野くんのやりたいことと、嵐がやるべきことが一致したタイミングだったんだろうね」(ニュアンス)。私もそう思う。

 

ここで言う「嵐がやるべきこと」とは、嵐を嵐から解放することだ。大野くんの目には、嵐自身もひとつの潮目にいると映っていたのではないだろうか。

 

嵐は今も変わらず人気だが、単純にCDの売り上げを見ても、後輩グループの台頭を見ても、上り坂にいるグループではない。嵐にはキラキラした青春のイメージがあるが、彼らはもう青春の時期を過ぎ、大人として安定した人生を歩み始めている。嵐はかわいいと言われるが(実際にかわいいが)、それでも確実に年齢は重なっていく。そして、先にも書いたように、嵐という完璧な五角形は、メンバー一人の結婚によってすら形を変える。変化は避けられないのだ。

 

大野くんは若い頃に、「嵐を五人別々の個性があるグループにしていきたい」という趣旨の発言をしている。結果として今の嵐があるのだが、それは同時に、同じ分野で競わないようにするという暗黙のルールがあったということでもある。

 

例えば、大野くんは英語をやりたいと過去に何度か発言しているが、嵐の英語担当は翔くんだ。大野くんと翔くんはソロコンサートを自分で演出して楽しかったと振り返っているが、嵐のコンサート隊長は松潤だ。嵐の動物担当は相葉君だ。嵐の役者担当はニノだ。そうやって、嵐が嵐であるために、お互い遠慮している部分はなかっただろうか。自分自身を縛っている部分はなかっただろうか。嵐のイメージを壊さないために、敢えて避けてきたことはなかっただろうか。嵐は平和主義だが、平和主義には負の側面もある。

 

もちろん、嵐のメンバー自身は、遠慮して自分を縛っているなんて思ったことはないだろう。彼らはのびのびと個性を伸ばした結果、今のような絶妙なバランスのグループになったのだから。しかし、嵐というグループが大きくなって、ひとつのプロジェクトになってしまったことで、彼らに求められる役割ができ、制約が増えたことは想像に難くない。そして、グループであるがゆえに、その「制約」は各メンバーの足それぞれに絡み合っている。

 

大野くんが問題提起したことで、嵐はグループであることの制約や連帯責任、自分たちの将来に向き合わざるを得なくなっただろう。どんなに仲が良くても、五人の人生に同じ未来が待っているわけではない。五人が別々の人間で、別々の人生を歩んでいる以上、いずれ道が五本に分かれることは避けて通れない。いや、本当は初めから五本だったのだが、それが分からなくなるくらい五人でがっちり肩を組んで並走してきたのだ。運命共同体だったのだ。

 

「一度嵐をたたみ、五人それぞれの道を歩んでもいいのではないか」という大野くんの発言は、そこを指摘しているのだと思う。五人が一本の道を歩いているかのように錯覚させるもの、五人の足に絡み合っている「嵐」という制約を、一度取っ払うべきだと。

 

そして大野くんの言った、「今までとは違う、縛られるものを一度払って、その時に、自分が何を思って何をするのかにも興味がある」という言葉は、「アイドルの自分」に引っ張られている自我、つまり、自分の足で歩いている「プライベートの自分」を取り戻した時、自分が何を望んでいるのか見えてくるかもしれない、という意味だと私は解釈した。

 

大野くんは言葉で伝えるのがあまり得意ではないと思うが、なるべく正確に自分の考えを伝えようと、メンバーと話し合ったのではないだろうか。そして、メンバーも自分の気持ちと擦り合わせながら、大野くんの考えや気持ちを理解していったのだろう。

 

その結果、嵐が解散という結論に至ったのは当然と言えば当然である。

実際、嵐がこの話し合いをしている前後最中も、SMAPにしろ、TOKIOにしろ、タッキー&翼にしろ、アイドルの身の振り方を考えさせられる出来事はたくさん起きている。自分たちの望まない形で変化を迎えるくらいなら、自分たちの手で幕を引く。そしてそれを、一滴の不純物も混入させずに、自分たちの言葉で伝える。あまりにもカッコいい選択だが、それは嵐が嵐を好きだからこそだと思う。翔くんが言うように、「嵐を宝箱に閉じ込める」ことで、彼らはキラキラした今の嵐を「永遠」にしようとしているのだ。

2019/4/7

第十一章

The Universe in his brain 大野くんの頭の中

 

これまでに、ジャニーズをやめようと思っていたと何度も発言してきた大野くん。

そのたびに、デビューが決まったり、10周年をお祝いされたりして、自分の気持ちを収めて状況を受け入れてきた彼が、ついに行動に出た。

 

嵐はデビューから20年間で「国民的」と冠が付くほど膨張し、翔くんが言うように、もはや単なるグループ名を越えて、嵐というプロジェクトになっているので、彼の決断が起こした余波は、それはものすごいものだった。実際、ファンはまだその衝撃を受け止めきれていないし、2020年末の活動休止までに第二波、第三波もあるだろう。

 

大野くんが、自分の行動によってどの程度の衝撃が起きると想像していたのかは分からないが、少なくとも他のメンバーはその巨大な衝撃をほぼ正確に予想して時間もかけたし、衝撃を和らげるための対策を二重三重に用意してくれていた。彼らの周到さには頭が下がるし、感謝するしかない。

 

なぜ、大野くんはこれほどまでに大きな決断をしたのか。彼は記者会見で、決断に至るまでの経緯や心境を語ってくれたが、具体的に、なぜ嵐をやめようと思ったのかという理由は明かさなかった。おそらく、その点については今後も語らないだろうから、ここで、大野担オタクは大野くんの頭の中に思いを巡らせてみようと思う。

 

そもそも、大野くんの頭の中は謎だ。

いや、誰だって他人の頭の中なんて分からないけれど、翔くんがかつて「大野さんの目で世界を見てみたい」(ニュアンス)と言ったように、彼の目には自分とは違う世界が映っているのかもしれない、と思わせるものがある。他のメンバーの言動は、「私ならこうする」という範囲からあまり外れていないが、大野くんはそうではない。今回の決断にしても、誰もが目指す「アイドル界の頂点」をここで手放すなんて、私だったら考えないだろう。

 

頭の中身を学力的に測るならば、大野くんは勉強ができない。

しかし、テレビの船舶免許取得企画で、勉強が「できない」わけではないことが明らかになったので、これは正しくない。正確に言えば、「学校教育で得る知識をあまり集積していない」だけだ。それは、大野くん自身が言っているように、授業もろくに聞かずに教科書に落書きばかりしていたからだろう。自信を持ってテストの答案を埋めたことなんてなかった、割り算ができなくて学校から泣いて帰ったというエピソードも、いくつかの媒体で本人が語っている。大野くんのラジオでは、「今日のひと言」として、しばしば四字熟語や慣用句が紹介されたが、きわめて一般的な慣用句すら聞いたことがないと大野くんが話すので、そのたびに私は度肝を抜かれた。この人ってバカなのかな?と思ったことも一度や二度ではないが、大野くんのアウトプットを見るたびに、どうもそうではないらしいと考えを改めてきた。

 

私が思うに、大野くんの思考は実はかなり深い。お芝居の役作りを見ていても、脚本や人物をかなり深いところまで掘り下げて理解しているのが分かるし、これまでの人生で経験してきた事物についても、深く考えてその精髄を自分のものにしている。

 

大野くんはよく「無になっている」とか「ぼーっとしている」と言うが、これは恐らく顕在意識のうえのことだ。例えば、大野くんが絵を描いている時、顕在意識ではどこにこの色を置こうか、どこに線を引こうか考えているはずだが、同時に潜在意識では別のことを考えているのだと思う。絵を描く人ならそういう感覚が分かるかもしれない。これは釣りをしていても、踊っていても同じだと想像する。そういう時間に潜在意識で考えていることが、大野くん本来の思考なのだろう。

 

インタビュー中の雑談で、「(じっと動かない時は)何を考えてるんですか?」、「時間が止まってるの?」とメンバーに聞かれた大野くんが、「止まってるんだろうね。ということで、俺も(生まれ変わるなら)自分になってみたい」と語ったことがある。それは、顕在意識が前面に出ている時の大野くんが、潜在意識の活動を自覚していないからだろう。

 

潜在意識で彼が考えているのは、時には宇宙についてとか、昆虫の構造についてとか、色々あるだろうが、最もよく考えているように思えるのは人間や人生についてだ。大野くんと仕事をしたテレビプロデューサーが、「彼はよく他人を観察している」と言っていたが、大野くんはそうやって他人を観察しながら、潜在意識のなかでその人の本質を探っているような気がする。だから私は、大野くんがメンバーのことを直感的かつ本質的にとらえていると感じるのだ。

 

大野くんの潜在意識の世界は、非常に哲学的なものだと思う。宇宙的と言ってもいいかもしれない。例えば、「時間」という目に見えない概念を考えるとき、人によっては川をイメージしたり、螺旋をイメージしたり、無限に落ちる砂時計をイメージしたりする。こうしたイメージのようなものが、大野くんの潜在意識のなかに漂っている気がするのだ。それを言葉に出して説明するのは非常に高度なことで、まさに学問としての哲学に近い。大野くんはそれを表現する語彙を持たないが、神様は、彼に「言葉で表現する能力」の代わりに、「身体で表現する能力」を与えた。だから、大野くんからアウトプットされるアート作品やダンスやお芝居は、彼の潜在意識の一端なのだろうと思う。彼が人間や人生についてよく考えているのではないかと想像するのも、彼の作品に「人間」が多いからだ。

 

そうやってアウトプットしてきた大野くんが、「しばらく前から絵が描けない」と言っていた。それは何を意味するのか。絵を描きながら顕在意識の下位にある意識層で自分と対話し、思考を深めていたのだとすれば、その時間が無くなったということだ。自分の意識世界をノックしても、何も出てこない。それは、大野くんの自我がぼやけてきたからではないかと思う。

 

彼のお芝居を考察するに当たり、大野くんの自我は無色透明だと私は書いた。無色透明の自我を持つからこそ、どんな役にも染まることができるのだと。無色透明であること、それ自体が大野くんの個性であり、自我であるが、それはとりもなおさず、自我がぼやけやすいということでもある。

 

これも先に書いたが、アイドルという仕事は、プライベートの自分とアイドルとしての自分に線を引かなければ続けるのは難しい。大野くんも、もちろんそうしているだろうが、本質的に素直な彼には、二つの自分を使い分けることが苦痛なのだろう。「VS嵐」のハワイスペシャルで、彼はテレビに映していいのかと思うくらいの泣き顔を見せてくれた。ファンはそれが嬉しかったし、感動もしたのだが、自分を使い分けていたら、あんな風に無防備な顔をテレビに晒さないだろう。

 

使い分けが苦手である以上、プライベートの自分とアイドルとしての自分の境界線も曖昧になる。その結果、アイドルとして求められている自分に引きずられ、彼本来の自我がぼやけてきたのではないか、と私は考えている。奇しくも、休止発表直後の「VS嵐」で、ゲストの坂口健太郎くんから「どの瞬間から嵐なんですか?」と、プライベートとの切り替えについて質問があった。大野くんは「いや、(嵐が)抜けないよね。だから俺の素はどこ?みたいな。大野智って何?みたいな」と答えている。これが、近年の大野くんだったのではないだろうか。

 

自分の自我を見失うというのは、自分が何者か分からないということだ。

記憶喪失でもないのに自分が何者か分からないとしたら、それは恐ろしいだろう。

だから余計に、大野くんは人間や人生について考えたのではないだろうか。

今回の決断の背景に、私はそんな深い思考を見た。

2019/4/5

第十章

Another face アイドルの恋愛と結婚

 

嵐のファンは多いが、嵐と結婚できると思って応援しているファンはそう多くないだろう。

それにもかかわらず、嵐メンバーの熱愛報道が出るとファンはショックを受ける。

ツイッターに「愚痴垢」をつくり、かわいさ余って憎さ百倍とばかりに、熱愛報道のあった推しとその相手(とされる人物)に対する怨嗟を吐き出す人もいるし、ショックのあまり自殺未遂をして病院に担ぎ込まれる人もいる。

 

しかし、嵐はアイドル誌女性誌で、恋愛や結婚について語る機会も多い。

ニノは「二宮家の跡継ぎは俺しかいないから、両親に孫を見せる義務がある」(ニュアンス)と発言していたし、翔くんも「子供はそりゃ欲しいよ」と言っている。大野くんと翔くんがチャイルドマインダーとして2歳未満女児のお世話をする姿なんて、もう萌えしかなかった。

遠い将来の結婚なら想像できるのに、現在進行形の恋愛はなぜ許せないのだろうか。

 

言い方は悪いが、アイドルは「商品」として市場に提供されている。市場に提供された以上は、不特定多数の人々の目に触れ、評価され、最終的に買うか買わないか判断される。商品側がいくら売ろうとしても、魅力がなければ消費者は買わない。たとえ買っても、満足できなければリピート買いはしない。その点で、嵐が非常に魅力的な「商品」であることは言うまでもない。

 

しかし、アイドルという「商品」は、ひとたび消費者の手に渡れば、その先をアイドル自身がコントロールすることはできない。ファンは提供された「アイドル」を、本人の知らないところで好きなように料理する。ファンだけでなく、アンチも、マスコミも、アイドルを素材として好き勝手に料理する。しかし、アイドルは商品であると同時に人間なので、自分を使った「料理」に納得できないこともあるだろう。だから彼らは、アイドルとしての自分とプライベートの自分に線を引いて、コントロールできないものを切り離す。そうして、「アイドルとしての自分」をできるだけ魅力的なパッケージに包んで提供し続ける。そうしなければ、自分を保っていられないだろう。

 

嵐はヘアメイク前の顔やステージ裏の姿を見せてくれることも多いし、楽屋でもあまり変わらないと話しているが、それは決してプライベートを見せているという意味ではない。例えば、嵐メンバーはお芝居で必要な場合を除き、喫煙する姿をファンに見せない。これは社会的影響を踏まえた事務所の方針なのかもしれないが、嵐に喫煙のイメージがないだけに、楽屋でタバコを吸う嵐を見たらショックを受けるファンもいるだろう。つまり、これがプライベートの顔である。そして、そのプライベートの顔の最たるものが恋愛である。

 

要するに、ファンが嵐の熱愛報道にショックを受けるのは、嵐にプライベートの別の顔があるという事実を突きつけられるからなのだ。もちろん、ファンの多くは彼らにプライベートの顔があることを理解しているが、アイドルを生業としている以上、自分の思い描く「アイドルとしての顔」だけを見せてほしいのだ。私は嵐がタバコを吸おうが、恋愛しようが、大抵のプライベートは許せるが(そもそもファンが「許す、許さない」の問題ではないのだが)、それでも「仲がいい」、「嵐のことが大好き」という私の中の「嵐」だけは壊してほしくない。これは、ファンがアイドルに望むことのできる、ほとんど唯一の要求である。

 

では、結婚はどうだろうか。

ファンに「プライベートの顔」の存在を突きつけるという意味では、恋愛も結婚も同じだが、恋愛は生々しい反面、まだ破局の可能性もある。しかし、夢を売るアイドルにとって、結婚とは、夢の世界に現実を持ち込む行為であり、徹底的な「夢の破壊」を意味する。「花より男子」でカップルを演じた松潤井上真央ちゃんに熱愛報道が出たとき、報道が事実かは不明だが、現実世界のファンに受け入れられたのは、このカップルならば「夢の破壊」が起こらないからだ。

 

ジャニーズの既婚者は、結婚してもほとんど家庭の話をしない。それが夢を売る者の務めだと知っているからだ。しかし、いかに徹底して「プライベートの顔」を隠しても、結婚はアイドルとしての終焉である。アイドルがファンに見せる「夢」とは、そのアイドルが何もかも見せてくれている、そしてファンを大切に思っているというイリュージョンなわけだが、結婚とは、アイドルがプライベートな顔を持ち、ファン以上に大切な人を見つけてしまったと告白することだからだ。

 

私はもちろん、嵐と結婚するつもりで応援しているわけではないし、嵐のメンバーが結婚したいのならば結婚するべきだと思っている。彼らの人生は彼らのものだ。しかし、それは「嵐のことが大好き」と言っているメンバーが、嵐以上に大切な存在を見つけてしまうということでもある。それはとりもなおさず、「仲がいい」、「嵐のことが大好き」という私の中の「嵐」が変化するということだ。想像してみてほしい。ベビーカーを押す松潤や子供の入園式に出席する翔くんを。彼らは変わらず仲がいいだろうけれど、ファンには見せない顔でパートナーとくつろぎ、メンバーよりも家庭を優先する、そこに私の知っている「嵐」は存在しない。

 

「アイドルとしての顔」だけを見せてほしいというファンの願い。結婚しても、彼らはその願いに応えようとしてくれるだろう。「アイドルとしての顔」を見せ続けてくれるなら結婚しても構わない、私は引き続き夢を見られるというファンもいるだろう。しかし、少なくとも私にとっては、嵐の描く完璧な五角形は、一人のメンバーの結婚で形を変えるものだ。

 

形を変えた嵐を同じように応援できるのか。アイドルとしての顔と同じように、プライベートの顔も応援できるのか。その覚悟をファンに問うのが、アイドルの結婚である。

2019/4/4