Arashiology

大野担の嵐オタクによる嵐論

第九章

Blind love, the way they love him アンリーという存在

 

五人五様の魅力を持つ嵐には、老若男女様々なファンがいる。

五人一緒にいる時の楽しそうな雰囲気が好きな人、特定のコンビにやたら萌える人、自分の推しメンバーしか目に入らない人。

 

嵐がグループで活動している以上、メンバーに個別のファンが付くのは当然である。チョコレートアソートの箱を買ったって、箱の中のお気に入りのチョコレートには誰でも序列があるだろう。アイドルグループというのはシビアなもので、ファンによる序列が露骨に見えてしまう「センター」というシステムすらあるが、幸い、嵐には「センター」も「エース」もなく、ダンスのフォーメーションでも各メンバーがバランスよくセンターを務めている。私は事務所関係者ではないので真偽のほどは不明だが、嵐は各メンバーにほぼ均等に個別ファンが付いているのだそうだ。

 

「嵐が好き」と言う人は、普通に考えて、嵐という五つの味が入ったチョコレートアソートのパッケージ全体が好きなのだと思う。しかし、たとえお茶の間のテレビでしか嵐を見ていなくても、嵐メンバーの顔と名前が一致し、それぞれのイメージを把握し、差別化が始まれば、「この箱の中ではこの味が一番好き」というお気に入りが生まれる。もちろん、優劣つけがたく全部好きな人も、途中で一番好きな味が変わった人も、その時々の気分で一番好きが変わる人もいるだろう。そして、一番好きな味以外は好きじゃないという人もいる。

 

一番好きな味以外は好きじゃない、むしろ嫌いだ、というファンがいわゆる「アンリー」である。特定メンバー「オンリー」のファンで、他のメンバーの「アンチ」であることから、そう呼ばれるらしい。いつ、誰がこの言葉を使い始めたのかは分からないが、私の記憶では、某通販サイトのレビュー欄あたりから始まったように思う。

 

なお、グループ全体のファンは「ゴコイチ」や「箱推し」、特定メンバーだけのファンは「オンリー」、そしてグループやメンバーに難癖をつける非ファンは「アンチ」と呼ばれる。「アンリー」は「アンチ」を含む造語であるから、そこには「ファンに非ず」という非難が含まれており、「アンリー」と呼ばれる人々が自分のことを「アンリー」と自称することはない。

 

好きな味のチョコレートを買いたいだけなのに、別段好きでもない味のチョコレートと一緒でなければ買えないとしたら、それはちょっとした苦痛だろう。それでも買いたい場合は、好きでもない味のチョコレートを我慢して食べるか、諦めて捨てるしかない。実際、「オンリー」ファンの人達はそうしているのだと思われる。だから彼らは、「ばら売りしてくれたらいいのになあ」と嘆く。

 

私はパッケージも含めて好きな大野担だが、それでもこういう「オンリー」ファンの気持ちは理解できる。2017年の「忍びの国」キャンペーンが終わり、大野くんのソロ仕事がふっつりなくなった頃は、他のメンバーの仕事情報が入るたびに、理不尽な焦燥や嫉妬を感じつつ、自担のソロ仕事のニュースを「今日こそは」と待ちわびていた。実際、大野くんはこの時、自分の退所も含めた話し合いをしていて、各所に迷惑をかける可能性がある以上、ソロ仕事を入れることなどできるはずもなかったわけだが、事情を知らない一介のオタクとしては、「グループ」という売り方の罪深さを感じざるを得なかった。自分が推しているのが単独の俳優や歌手であったら、露出が少なくても焦らず待っていられただろうに、と。

 

アイドルオタクのつらいところはそこである。「グループ」のなかに、ひとたび推しができてしまうと、それを全力で推さずにはいられない。自分の推しに高い視聴率をとらせてあげたい、高い売り上げを記録させてあげたい、高い評価を得させてあげたい。そこには往々にして、「他のメンバーより」という比較級が付いてしまう。嵐がどんなに平和主義で、本人たちが競わないようにしていても、「グループ」で「ビジネス」をしているからには、必ず何らかの数字が付いて回る。中には比較競争に勝たせることに推しがいを感じるファンもいるようだが、そこで比較のつらさを感じたくないのならば、箱推しに振り切るか、他のメンバーを目に入れないようにするしかない。そういう意味では、「オンリー」はある種の自衛手段なのかもしれない。

 

他方、「アンリー」の人々は、「ばら売りしてくれ」と主張するだけにとどまらない。箱で買ったアソートチョコレートに嫌いな味が入っていたら、黙って捨てればいいだけなのに、彼らはそのどこが嫌いかを懇切丁寧に説明し、あまつさえぐちゃぐちゃに踏み潰して、「こんなに嫌いなの」と喧伝する。彼らの目には、自担は崇拝すべき完璧な存在で、他のメンバーは無自覚にあるいは悪意を持って自担の足を引っ張っているように映るらしい。だから彼らは自担を害するものを取り除こうと必死で叩くのだろう。中には、叩くことに快感を覚え、応援より攻撃が目的となってしまった「アンリー」もいるが、こうなるともはやただの「アンチ」である。

 

アイドルとは商品であり、ひとたび市場に提供されれば、それにお金を払ったファンがどう扱おうが、アイドルは関与できない。妄想のオカズにしようが、等身大の人形を作って一緒に寝ようが、犯罪にならない限りファンの自由である。そして、どんなふうに応援しようが、それもファンの自由である。ファンが他のファンにどうこう言える立場にあるわけでもない。しかし、盲愛と独善に凝り固まった「アンリー」は、他担から疎まれ、同じメンバーを推す同担からも異端の存在として遠巻きにされていることだけは間違いない。人間関係とは、自分自身のリフレクションなのだ。

 

このテーマを考えるに当たって、自担に言及したくはなかったのだが、正直なところ、「オンリー」や「アンリー」は大野担に多い。よって、ここまでの内容も、大野担を念頭に書いてきた。どうして大野担は極端に走りがちなのか。もっと言えば、なぜ「ばら売り」をことさら希望するのか。なぜ他のメンバーが目に入らないように「オンリー」になったり、他のメンバーを攻撃する「アンリー」になったりするのか。それはおそらく、大野担が求めるアウトプットに対して、供給が少ないからである。どっかの女優が「ゴリ押しでもうお腹一杯」と言われるのとは逆で、ファンはお腹一杯になりたいのに、いつまでたってもお腹一杯にさせてくれない。大野くんはよく、「なんで僕なの?」と自分を過小評価するが、そして自分の魅力に自覚がないところも魅力ではあるが、暴走寸前までお腹を空かせて待っているファンがそれだけ多いのである。

 

ただでさえ食べ足りない大野担に、これから更なる飢餓が襲ってくる。

ファンに与えられた選択肢は、細々と食いつないで飢餓に耐えるか、餓死して退場するか。

それでもファンは、「耐える」という選択肢が残ったことを感謝するしかない。罪な自担である。

2019/4/2

第八章

He is a genius, don’t you think so?  天才でしょ、あの人?

 

嵐の最年長と最年少、大野くんと松潤のコンビは、じいまごコンビと呼ばれることが多いようだ。

 

たかが三歳程度の年の差で「じい・まご」と呼ぶのもいかがなものかと思うが、某占い芸人が大野くんについて、「生まれた時から心が60歳」、松潤については「心が16歳」と表現したことは、あながち間違っていないのかもしれない。

 

大野くんはわりと若い頃から、目の前の事象をひとまず受け止める包容力を持っていて、それは彼のラジオに送られてくるリスナー投稿への対応などを聞いているとよく分かる。それなりに人生経験を積んだ人でも、なかなかそんな境地に至らないだろうと凡人の私は思うのだが、彼はまず否定から入らない。そういう包容力や、寡黙なところ、猫背なところが「おじいちゃんみたい」と表現されるのだろう。私の思う老人のイメージは、「色々な経験から人生の教訓を蓄積しており、大抵のことには動揺せず、余計なことは語らず、時々含蓄のある言葉を紡ぐ」というものだが、何だか大野くんのことを指しているようではないか。暴走老人も多い今の世の中、大野くんよりだいぶ年上のファンが、大野くんの人柄を絶賛するのはこういうところなのだと思う。

 

松潤はそんな大野くんの包容力を十分に分かっていて、いつだかの「ワクワク学校」で、大野くんへのお礼として、「大野くんは何でも受け止めてくれる」と発言している。だから彼は大野くんにキツい発言もするし、スキンシップもするし、いたずらっ子全開にもなる。松潤は、礼儀正しく大人の振る舞いもできる人だが、やはり「16歳の心」の持ち主でもあるのだろう。大野くんに対する時は、完全におじいちゃんに甘える孫、もとい兄にかまってほしい弟といったところだ。大野くんは他のメンバーを「おまえら」と呼ぶことがあるが、これは恐らくニノと松潤を指していると思われる。それは、この二人が大野くんにじゃれつき、大野くんがそれをあしらう関係性だからだ。そして、「こんなことしたら松潤に怒られる」とメンバーから恐れられる(?)松潤に、まともに反対したり、冗談でも文句を言ったりできるのは大野くんだけだろう。

 

大野くんについて語ろうとするとき、他のメンバーが笑いに走っても、松潤はわりと真面目にコメントしている印象がある。普段はツンデレで、なかなか大野くんや他のメンバーを褒めたりしない彼だけれど、実はメンバーのことを深く理解し、かつリスペクトしているように思う。「VS嵐」に俳優の林遣都くんが出演したときは、酔った松潤が大野くんについて「カッコいいでしょ。天才でしょ、あの人」と語ったことが暴露され、(松潤は照れて覚えていないと言っていたが)大野担としてはまさに松潤をハグしたい気分だった。酔って無意識に言う言葉は本音だろうから。「untitled」コンサートで大野くんにユニット曲の振り付けを依頼した時も、もっと細かく教えてほしかったと松潤は後で文句を言っていたが、これは、大野智の振り付けを正確に踊りたいという彼のストイックさであり、大野くんへのリスペクトが言外に漏れた発言だと思う。

 

テレビで見られる松潤のイメージと言えば、こだわりが強く、負けず嫌いで、クールな俺様キャラという感じだが、実際の彼は、真面目で不器用な努力家で、良くも悪くも、嵐メンバーでは最も一般人に近い感覚を持っている常識人だと思う。もちろん彼のルックスは一般人離れしていて、彼自身もそのことを分かっているから、ビジュアル磨きにも余念がない。大野くんの身だしなみや日焼けを一番気にするのも松潤だ。彼はアイドルとしてのプロ意識が非常に高いので、自分(たち)の価値を最も客観的に把握しているのだろう。だが、「緊張しい」なところもあって、ここ一番でセリフを噛むといったヘタレな姿も見せてくれる。「嵐にしやがれ」のThis is MJコーナーは、イジったら怒られそうなイメージの松潤をあえてイジるという発想で、松潤の新たな魅力を発掘した。そう、松潤はクールでかっこいいが、実は不器用なのだ。そして、それを努力でカバーする人なのだ。

 

そういう松潤と真逆なのが、同い年のニノだ。器用で、さしたる努力も見せずに何でもさらっとこなし、おバカなこともできるニノは、松潤にとって、コンプレックスを刺激する相手だったのかもしれない。だから、「末ズコンビ」と呼ばれる松潤とニノの間にも、大野くんと翔くんのようなある種の緊張感があるように思う。ニノは昔から松潤のことを「松潤」とは呼ばず、潤くんと呼んできた。「J」と呼び始めたのもニノで、MJが世間に定着したら、今度は「松さん」になった。こういうこだわりも、二人の独特の関係性を感じさせる。大野くんが松潤をやんちゃな弟のように見ていて、何をされても怒らない、あるいはわかりやすく怒るのとは対照的だ。しかし、ニノは自分にはないストイックさを持つ松潤をリスペクトし、常に立てているし、よく松潤をネタにするのも、松潤自身が気付いていない彼のおもしろさがニノには見えているからだと思う。

 

それぞれ個性的な輝きを放つ嵐メンバーたちのなかで、自分なりの立ち位置を模索した結果、松潤は演出を担当するコンサート隊長になった。彼が他のアーティストのコンサートや俳優の舞台を見に行くことが多いのも、彼の努力だと思う。だから、他のメンバーは彼の努力の結晶であるコンサートを全面的に肯定する。松潤はかつてインタビューで、「気を遣うメンバーの中で、唯一自分(松潤だけ)が主張をする」と語ったことがある。他のメンバーが松潤の演出に従うのは、嵐がケンカをしない平和主義のグループなこともあるだろうが、そこには、松潤の努力に踏み込まないという「お兄ちゃんたち」の優しさがあると思う。松潤はおそらく、メンバーのそんな優しさに気付いていると思うが、そのうえで彼は主張し、他のメンバーはそれを受け入れる。それは、演出に関して誰よりも努力と経験を積んできた自負があるからだろうし、演出以外でも、嵐のアクセルとなって主張することが、自分の嵐としての役割分担だと認識しているからだろう。

 

結論、潤智コンビの関係はやんちゃな弟とあしらう兄。

2019/3/29

第七章

The world filled with love and peace 優しい世界

 

嵐の天然コンビこと、大野智相葉雅紀

 

彼らについて考える時、私の頭にはあるイメージが浮かぶ。

アニメ「妖怪ウォッチ」の人気キャラクター、コマさんとコマじろうの兄弟だ。コマさんは、神社の狛犬をベースとしたキュートなルックスで、同アニメでもトップクラスの人気を誇る。素朴で優しく、控えめな性格で、田舎から出てきたという設定であるため、都会の様々な事象に「もんげー!」と素直に驚く。ロボット掃除機ともお友達になっちゃう。そんなコマさんの色違い(笑)の弟がコマじろうで、兄ちゃんを追いかけて都会に出てきた後、早々に都会に馴染み、DJKJと名乗ってクラブに出入りしていたこともある。

 

コマさんは何事にも素直に反応する(そしてたいていミラクルが起きる)ので、コマじろうはちょっと心配そうに見守り、時にはやんわりとツッコミを入れるのだが、そんな兄弟の会話は常にほのぼの、ふわふわしている。その空気感が、まさに大野くんと相葉ちゃんの空気感と重なるのである。

 

相葉ちゃんは嵐のなかでは年齢的に中間で、トークを仕切ったりするタイプでもなく、話を振られてしゃべる、どちらかと言うと大野くんに近い立ち位置なので、大野くんと二人でいると、どちらが会話をリードするでもなく、ツッコむでもなく、浴衣姿でやる旅館のピンポンみたいな感じになる。天然コンビ推しのファンは、まずその優しいテンポに癒されるのだ。ただ、このコンビだと、相葉ちゃんからほんのりお兄ちゃんオーラが出る。これは、相葉ちゃんに弟がいて、実生活でもお兄ちゃんだからだろう。私のコマさん兄弟のイメージでも、素直だけど毎度の事件を丸く収めるコマさんが大野くん、優しいけどしっかりした弟が相葉ちゃんだ。

 

この二人に共通するのは、素直さだと思う。アイドルならごまかしたり、隠したりして自分を守るだろうという場面で、彼らはそれをしない。彼らは何に対してもまっすぐだし、嘘がつけない。嘘を言わなくてはならない場面では、ただ困った顔で沈黙するだろう。だから彼らは「ババ嵐」の最弱王なのだ。魑魅魍魎が跋扈する芸能界にあって、こんなに素直な二人が今まで無事にやってこられたことに、オタクは感謝しかない。誰もが人気者にすり寄る一方で、裏では転べばいいと思っているような業界を渡ってこられたのは、他のメンバーの存在と、彼ら自身の賢さが盾となって身を守ったからだろう。ただ素直でバカだったら今の嵐はない。

 

普段の言動から、二人は天然コンビなどと呼ばれているが、私は相葉ちゃんの本質は天然ではないと思うし、まして、大野くんを天然だと思ったことはない。二人は知らないこと、思ったことを素直に口に出すだけだ。相葉ちゃんのパブリックイメージは、明るいイジられキャラだが、実はフィジカルもメンタルもデリケートである。彼は気配りもできるし、空気も読めるし、特に人間関係では細かいことが気になる繊細なタイプで、周囲の人間を喜ばせたいがために、自分の限界を考えずに倒れるまで頑張ってしまうところがあると思う。若かりし頃、企画のためにサックスを練習しすぎて肺気胸を発症したというエピソードもそれを裏付けている。

 

大野くんはそんな相葉ちゃんの素顔を知っているから、彼が二度目の肺気胸で入院している間、毎日何気ないメールを送り続けたのだと思う。入院中、仕事に穴を開けてしまったことが相葉ちゃんの頭をぐるぐる巡り、休むに休めないでいることが、おそらく大野くんには想像できたのだろう。他にも、嵐スイーツ部の部長と副部長を自任している二人だが、ある時、相葉ちゃんが大野部長から退部を言い渡されたことがコンサートのMCで明かされた。その経緯はこうだ。コンサート前、恒例のスイーツをあまり食べていない相葉ちゃんに、部長がそのことを指摘した。相葉ちゃんが、部長の機嫌を取ろうとホールケーキを丸ごと食べようとしたところ、部長が「ちょっと、君退部だ」。私自身が会場でMCを聞いたわけではないので、正確なところは分からないが、大野くんは、あまりスイーツを食べる気分ではなかった相葉ちゃんが、無理をしているのが分かったから退部宣告したのだろうと想像した。

 

このように、最近の天然コンビのエピソードでは、「相葉ちゃん、無理しないでね」という大野くんの気遣いを感じることがある。脱力系アイドルと呼ばれる大野くんから見ると、元気印の相葉ちゃんは頑張りすぎているように映るのかもしれない。今、嵐メンバーのなかではダントツの忙しさを誇る相葉ちゃんだが、120%の笑顔で仕事をしている彼が素に戻った時の落差が時々頭をよぎり、私もちょっと心配になる。

 

大野くんと他のメンバーとの関係性を考えるとき、ニノにしても、翔くんにしても、松潤にしても、大野くんに対するリスペクトというものを必ず感じる。しかし、相葉ちゃんに限っては、あまり大野くんへのリスペクトは感じない。それらしい発言も聞いたことがない。なぜだろうとずっと考えていたのだが、天然コンビ推しのファンがツイッターで、「二人は同じ世界の住人」(ニュアンス)とつぶやいているのを見て、妙に納得した。確かに、目の前にあるものにまっすぐに向き合う二人は、素直で優しい世界に生きている。そんな二人が同じグループにいることが、嵐というグループの雰囲気を醸成するうえで大きな役割を果たしていることは間違いない。

 

ただ、大野くんが相葉ちゃんのことを直感的かつ本質的にとらえているのに対して、相葉ちゃんは大野くんを比較や評価の対象ではなく、同じ種類の人間ととらえているのかもしれない。優しい妖精の住む国では、たとえ空を飛べても、魔法を使えても、それは妖精の個性に過ぎない。どんな個性を持っていようとも、そこの住人にとって、妖精が妖精であることは当たり前で、リスペクトの対象ではないということだろう。

 

私は彼らを「妖精」と例えたが、別に仏でも仙人でも何でもいい。私には、「同じ世界」=「妖精の国」だったので、くだんのツイートを見たとき妙に納得してしまったのである。それにしても、コマさん兄弟といい、妖精といい、私のなかの天然くんのイメージって…。

 

結論、天然コンビは尊い

2019/3/28

第六章

Just looking at him makes me cry 翔ちゃん見るだけで泣いちゃう

 

嵐用語の基礎知識。

嵐の年長組である大野智櫻井翔のコンビは、山コンビまたはお山と呼ばれている。

いつ誰が呼び始めたのかは不明だが、「嵐」という漢字を「山」と「風」に分けると、「山」が上に当たることからそう呼び習わされるようになった。応用編として、山コンビの言動にファンが萌え転がることを山に登るとか、登山すると言う。また、この二人らしい信頼感溢れるやり取りに対して、山々しいと形容することもある。

 

どちらかというと思考や行動に共通項が多い大宮コンビに対し、山コンビは真逆である。

早口言葉を噛みまくる大野くんに対して、時事用語でも何でもスマートに使いこなすキャスターの翔くん。個展を開く絵の腕前を持つ大野くんに対して、「櫻井画伯」と揶揄される翔くん。運動神経抜群で高いところも平気な大野くんに対して、高所恐怖症で「VS嵐」では残念なところを見せてくれる翔くん。一週間先の約束をしても当日の気分で断っちゃう大野くんに対して、がっつり予定を立てて分刻みのスケジュールをこなしたい翔くん。海外にウェストポーチひとつで出かける大野くんに対して、荷物がやたら多い翔くん。料理が得意な大野くんに対して、タコの刺身も切れない翔くん。メロ担当の大野くんとラップ担当の翔くん、感覚派の大野くんと理論派の翔くん…。

 

細かいところだと、「宿題くん」で、気になるコンビニの女の子に気持ちを告白するというお題が出されたとき、ちょっと笑えるおちゃめな言葉で女心をつかんでくる大野くんに対して、あれだけ語彙が豊富なのにグダグダになる翔くんとかも印象に残っている。

とにかく二人は行動パターンも得意分野も真逆である。

 

嵐のなかでは付き合いの長い二人で、出会った頃はティーンネイジャーだったため、一歳の年の差や一学年の差は大きかっただろう。当時の翔くんにとって、「大野の後ろで踊りなさい」と指示されるような存在だった大野くん。事務所の先輩とあまり交流がない印象の翔くんだけど、大野くんは東山先輩を始めとして、先輩からいじられたりしてかわいがられている。翔くんをバンビと呼んでかわいがってくれる先輩の(V6)岡田くんのことも、大野くんは岡田と呼び捨てにする。そういうディテールのひとつひとつが、「智ちゃんが一年だけ先輩♪」として翔くんに染みついているように思う。

 

嵐としてデビューして20年、もはや一歳の年の差なんてないも同然の関係だろうし、現にニノや松潤なんてあっという間に敬語を使わなくなり、今では大野くんをいじりまくっている。だが翔くんは、他の誰よりも意識して大野くんを年上として扱っている。それは、大野くんが先輩であるというイメージが彼自身に刷り込まれていることもあるだろうが、それ以上に思い起こされるのが、「リーダー決めじゃんけん」のくだりだ。

 

少年隊の番組で、先輩の提案により、嵐はリーダーをじゃんけんで決めることになったわけだが、その場の雰囲気は、明らかに大野くんをリーダーにする流れだった。何より、先輩たちがそういう意向を持っているのを当時の翔くんは感じただろう。だから彼は、勝っても負けても大野くんをリーダーにさせるつもりだったはずだ。本当は納得していなかったかもしれない。これは当時の翔くんにしかわからない。翔くんのほうが場を上手に仕切ることができ、メンバーを引っ張るタイプだったことは間違いないからだ。だが、翔くんは空気を読んだ。その時、翔くんの役割は決まったのだと思う。大野智をリーダーに「させる」のは自分だ、と。

 

どう見てもリーダーという肩書に腰が引けていた大野智を、リーダーにしていく。そのために翔くんは大野くんを立てた。それはもう、夫である波平をどこまでも立てながら、裏では磯野家の全てを仕切っているフネさんのように。彼らを最初に「山夫婦」と呼んだ人を褒めてあげたい。

 

翔くんが大野くんを年上として、リーダーとして扱えば扱うほど、大野くんは自分のリーダーとしての立場を自覚せざるを得なくなる。結果、リーダーはあだ名みたいなもの、と言いつつも、大野くんは(翔くんがリーダーになった場合とは違う)自分なりのリーダー像を考えることになった。彼がリーダーとして見せられるものをメンバーに背中で見せ続けてきた、その動力のひとつは、翔くんの存在だったような気がしてならない。

 

以前、翔くんが雑誌のインタビューか何かで、「自分がニノと同じように大野さんに強めの態度をとったら、大野さんは拒否反応を示す」という趣旨の発言をしている。これはメンバー個々の関係性があるなかで、大野くんは翔くんにだけは舐められてはいけないのだと、本能的に分かっていたからではないかと思う。だから、おそらく「リーダー」という言葉を巡って、山コンビの間にはお互いに踏み込まない独特の緊張感がある。翔くんが大野くんをリーダーと呼ばないのも、そのあたりが微妙に関係している気がする。

 

その一方で、フラットなメンバー同士としての山コンビは、得手不得手が真逆の相手のことを手放しで賞賛し、「他のメンバーと入れ替われるなら?」という質問にお互いを指名するほど相手をリスペクトしている。また、時には相手を頼り、相手が苦手なことは甘々に許す。

 

大野くんの目には、翔くんはあまりに完璧でまぶしい存在に映っていて、だからこそ翔くんからリーダーとして尊敬される自分でなければならないと思うのだろうし、他のメンバー以上に翔くんを頼りにしているし、翔くんのダメなところを「人間くさくていい」と表現するのだろう。そして、翔くんにとっての大野くんは、「どう考えても自分(翔くん)の頭や身体からは出てこないものを持っている人」で、何を置いても立てて、フォローしなければいけない存在であり、大野くんに頼りにされていることが彼の誇りなのだと思う。これが、大野くんの言う「僕の介護要員」(←大野くんが自分と翔くんの関係を例えた発言)の正体で、そんな健気な翔くんに大野くんは時々ドSな態度をとり、スマートで真面目な彼が動揺する姿を見て楽しんでいる節がある。

 

結論、山コンビには緊張感と尊敬と甘々が混在する。

ちなみに、私はコンビでは山推しである。

2019/3/27

第五章

No one can be his buddy, except me あの人いじっていいのは俺だけ

 

大宮コンビについて考えてみよう。

同じようなサイズ感で、無意識に身体が触れていることも、ボディタッチも多い二人。テレビの収録中だというのにこそこそ話したり、ニノが子供みたいなちょっかいをかけて、大野くんが何すんだよ、やめろよ~と押しやったりする光景は、嵐ファンにはおなじみで、「大宮のわちゃわちゃ」として尊ばれている。

 

二人に共通するところは、仕事に対する真剣さをあえて見せないスタンスと器用さ。二人とも寝癖をつけたまま寝間着同然の格好で仕事現場に来るし、台本を読む姿はメンバーにもあまり見せないし、曲の振り付けはさくさく覚えて、仕事が終わればとっとと帰る。明日○時に迎えに来ますから、とマネージャーに言われても、直後に忘れる。

 

しかし、セリフや振り付けはちゃんと頭に入っていて、誰も文句を言えない結果を出してくる。実際に彼らが器用だからできる部分もあるだろうが、大野くんの場合は、練習の過程を誰かに見せることに意味を感じない、結果だけ見せればいいという彼の美学によるもので、彼はやる気がないわけでもないし、真剣でないわけでもないし、まして努力していないわけではない。ずいぶん若い頃からそのスタンスは変わっていないらしく、かつて、「大ちゃんと二人で受験勉強したら?」というお題に対して、翔くんは「あの人、あんまり人を頼るの好きじゃないよね。やればできるコだから」、ニノは「お互い勝手にやるだろう。リーダーもひとり黙々とやるタイプだからな」と語っている。昔から彼は、自分に与えられたタスクは自分自身でクリアし、求められる部分だけをアウトプットしたいタイプだったのだろう。

 

ニノの場合は、大野くんのそういう影響を受けているような気もするし、本当にさしたる努力もなしにできてしまうような気もする。大野担の目から見ても、彼は大野くん以上に器用なタイプで、例えるなら、助走なしの高跳びみたいなえげつないことがさらっとできてしまったりする。これはあくまで私の個人的な印象だが、彼は仕事に真剣になる(姿を見せる)なんてダサいと思っているし、もっと言えば、「世間の奴らはなんでこの程度のことで感心するんだ、バカなのか」、とすら思っているように見える。そんな風に、世の中を醒めた目で眺め、斜に構えているニノが、嵐のメンバーにだけは真正面から向き合うことが、オタクにとっては「エモい」のだ。

 

しかし、いかにニノがシニカルなキャラであろうとも、彼が真剣に仕事をしていることは間違いない。それは、彼自身の仕事を自分の愛して止まない嵐に還元するためでもあるし、彼自身がハワイで語ったように、彼の仕事の根底に、「目の前にあることを頑張れないやつが、何を頑張れるんだ」という大野くんの至言があるからだろう。だから、どんなばかばかしい内容であっても、彼は目の前にある仕事を一生懸命やるし、こと嵐に関しては、どこまでも真剣で熱い。

 

近年、ニノは雑誌のインタビューをトリッキーな回答ではぐらかし、なかなか本音を語ってくれなくなったように思うが、それでも以前は素直な気持ちを語ってくれていた。私は、ニノのインタビューで、「芝居、歌、踊り、リーダーが一番いろんなものを持っていると思っている」と語るのを見たことがあるし、「自分がかなわないと思うのはリーダーと相葉くん」、「俺はリーダーの芝居仕事が大好きだから、もっとやってほしい」、「リーダーみたいな人は、芸能界にはいない」(ニュアンス)というのも読んだことがある。彼がたまに聞かせてくれるこういうコメントから、彼が大野くんをリスペクトし、信頼していることは充分に伝わってくる。

 

リアクションがワンテンポずれる大野くんに対して、「衛星回線」だの、「Windows95」だのとキレキレのコメントをぶち込もうが、噛んだ瞬間に「はい終了~」と話をぶった切ろうが、お料理のコメントを求められた大野くんに「どうせあの人、濃厚しか言わない」とツッコもうが、ニノは自分のできないことでも大野くんならできることを知っているし、大野くんがここぞというときには必ず結果を出してくることもよく知っている。ニノは大野くんのメンタリストだし、大野くんの歌声が好きだし、お芝居が好きだ。ニノのツッコミの根底には常にリスペクトと愛情がある。

 

誰よりも大野くんのことを知っている自負があるからこそ、彼は大野くんのことを(自分ほど)よく知らない他人に、大野くんをいじられたり褒められたりすると、ちょっと面白くないのかもしれない。そんなニノの表情をオタクは見逃さず、「嫉妬宮」と呼ぶ。「VS嵐」の映画 怪物くんチームの回で、大野くんがゲストチームを背負ったときは、いつもより一枚本気が乗った大野くんに、「大野さん結局、1人のときとかイキイキして(何でも)できちゃうからな~」と、思わず本気の拗ねコメントが飛び出した。オタクはこれに大喜びし、「拗ね宮」発動だと盛り上がったものだが、おそらくニノはそんな自分を自覚していないだろうし、大野くんは気付いてもいないだろう。これは我々オタクの密かな楽しみである。

 

結論、大宮コンビの関係性は萌え要素満載である。

2019/3/17

第四章

Their act, their role 役者としての彼

 

大野担が大野くんにハマるきっかけは、ダンスだったり、歌だったり様々だ。

確かに彼のダンスは軽やかで、バレエを彷彿させるようなターンはもう絶品だ。歌だって、アイドルを名乗るのが許せないくらいのテクニシャンで、五人で歌っているときは、実質的にガイドボーカルを務めているのではないかと思うくらい、音も正確だ。何より声がいい。嵐は五人の声に個性があってそれが嵐の曲の魅力になっているのだが、大野くんの歌うフレーズはとりわけ頭に残るものが多い。これは大野担が大野くんの声を探しながら聞いているからかもしれないけれど。

 

だが、そういう大野くんの数々の魅力を差し置いて、私が一番惹きつけられるのは彼の演技である。私が大野担になったきっかけがドラマだったせいかもしれないが、彼のようにお芝居をする人を私は今まで見たことがない。ドラマ評ではよく「憑依型」と表されているが、要は、自我を完全に消して、役そのものになりきるタイプのお芝居だ。役を演じている時は、しゃべり方から歩き方からクセまで本人とは別人になってしまう。まさに北島マヤ恐ろしい子…。

 

例を挙げるまでもないが、「魔王」で成瀬領を演じているときは、背筋を伸ばして優雅に歩き、やわらかい声でしゃべっている。「怪物くん」はがに股だし、「ピカ☆☆ンチ」のハルは内股でモゴモゴしゃべる。「世界一難しい恋」のレイさんは、どうやらポケットに手を入れるクセがあったらしい。

 

ジャニーズのかざぽん(風間俊介くん)はかつて、自分の思うジャニーズ演技王のひとりに大野くんを挙げ、「大野くんにできない役ってなんだろう」と発言している。自分がプロデューサーだったら、気弱な役も、極悪な役も、善人の役も、彼にできない役が想像できない、という趣旨だった。かざぽんも演技がうまいと私は思うが、役者としての彼はニノと同じタイプで、大野くんとはお芝居に対するアプローチが違うからそう思うのではないだろうか。

 

ニノのお芝居も私は好きだが、彼のお芝居は大野くんと違い、何を演じるにも自然体だ。彼の真骨頂はその顔立ちや声が生む佇まいで、倉本聰作品のようなしっとりとした物語とも親和性が高い。だから、これまでのニノの作品を見ると、正直、ニノの無駄遣いだなあと思うものもある。彼は出演作品が多いので、中には単純なミスキャストみたいなものもあるし、今後もやれと言われればやるだろうけれど、個人的にはコメディやアクションでは彼の魅力は活かしきれないと思う。大御所監督から声がかかり、賞レースを勝ち抜き、映画が主戦場になりつつあるのも、そういう彼への需要と供給がかみ合った結果だろう。

 

対して、大野くんのお芝居は自然体とは言い難い。むしろ強烈なキャラクターばかり演じているし、彼のアプローチならそのほうが合っていると思う。自然体なほうのお芝居の代表と言えば、「今日の日はさようなら」の耕太役があり、そういう演技もできるのは間違いないのだが、「最後の約束」で、自分のイメージで当て書きされた役を演じた際、どう演じていいか戸惑ったと本人が語っているとおり、彼自身が持つ自分のイメージが曖昧で、彼自身はどこまでも無色透明な自我の持ち主であるため、「自然体」はおそらく彼の鬼門である。つまり、「大野くんの自然体」とは、かなりの確率でぼやけた存在感を意味する。大野くんが普段、「何を考えているか分からない」だの「ミステリアス」だの言われる理由は、このあたりも関係しているのかもしれない。

 

しかし、無色透明な自我の持ち主であるということは、その上にどんな極彩色を塗りたくっても、毒々しく染め上げても、成立してしまうということだ。だから彼はどんな役でも演じることができる。子供も老人も、オカマも宇宙人も、ヤンキーだろうがホームレスだろうが、サイコパスだろうが、それこそ何だって演じられるだろう。それ故に、彼はお芝居をすることで自分の人格と役の境界線が曖昧になって、激しく消耗するのだと思う。「魔王」撮影中の大野くんがバラエティでもコンサートでも終始役を引きずっていたことは、大野担なら誰でも知っている。

 

繰り返すが、そういうお芝居のアプローチができる役者を、私は他に知らない。もちろん、私が知らないだけで、世の俳優さんの中にはそういうタイプもいるのだろう。だが、多くの場合、自分自身の自我を完全に消せずに、上からビビッドな色を塗ろうとしても、下にある自分自身の色がうっすら透けてしまうものではないだろうか。

 

だから、私は大野智の演技が見たい。少女マンガ原作のラブコメなんか、事務所の後輩や若手のイケメン俳優に任せておけばいい。彼の稀有な能力が思いっきり活かせるような、他の役者が思わず尻込みしてしまうようなどぎつい役をやってほしい。

2019/3/16

第三章

I want to know more about him 彼のことをもっと知りたい

 

「魔王」を見終わって1週間ほどは、ドラマの世界から抜け出せず、ふとした瞬間に成瀬領の11年間に思いを馳せるような日々を送った。公式サイトの視聴者からの書き込みも、最初から最後まで舐めるように読み尽くした。今までそんなに多くのドラマを見て来たわけではないが、ドラマの世界にこんなに心を奪われたことは、後にも先にも「魔王」しかない。これに近い感覚が残ったのは、やはり大野くんの「世界一難しい恋」くらいか。

 

初めて「魔王」を見てから約10年が経ち、セリフを覚えるくらい何度も繰り返し見るうちに、ドラマの都合良すぎる展開や演技の粗削りなところなども目に付くようにはなったが、それでも彼の演技から受ける熱量は今も変わらない。彼が憑依型の役者なのは多くの人が認めるところで、私もそう思っているが、色々なものに追い詰められていた当時の大野くんの精神状態が、成瀬という役に乗っかったからこそ、あそこまで説得力を持つ演技になったのだろうと、当時の状況を知った今なら分かる。そして、ドラマの熱に引きずりこまれ、現実に戻れなくなったのが私だけではないことは、このドラマをきっかけに大野くんに興味を持つ視聴者が続出し、「魔王落ち」という言葉が生まれたことからも明らかである。罪作りなドラマとしか言いようがない。

 

さて、気が済むまで「魔王」をリピートするなかで、私はドラマの劇伴や主題歌がやたらかっこいいことに気付いた。ドラマのクレジットタイトルを見てみたら、「主題歌 嵐 truth」とあるではないか。あのかっこいい曲を歌っていたのは嵐だったのか。さっそくMVを見てみると、ピンクのシャツをお召しになった麗しい成瀬さんが歌い踊っていた。この時点で、私は完全に「落ちて」いたわけだが、落ちたのが成瀬領という役なのか、成瀬領の中の人である大野智なのか、いまいち分からなかった。というのも、私はそれまでジャニーズアイドルに興味を持ったことがなく、クラスメートが好きなアイドルでキャーキャー騒いでいても、一向に共感できないティーンネイジャーだったのだ。大人になってからも、ジャニーズアイドルとは、「おしなべて歌が下手で、踊りながら変な曲をユニゾンで歌う集団」(←ひどい)という認識だった。その私が、ジャニーズのアイドルに落ちるなんてことがあるだろうか。ちょっと意地もあったかもしれない。

 

成瀬領の中の人はどんな人物かと思った私は、当時放送されていた嵐のバラエティ番組を見てみた。まだ昼の30分番組だった「VS嵐」で、今にも噛みそうな怪しげな滑舌でふわふわしゃべる、ツンツン頭のお兄ちゃんが大野智だった。深夜の「宿題くん」で、ぐだぐだのコメントでメンバーを笑わせているのが大野智だった。…私が落ちたのは、やはり成瀬領という架空の人物だったのだと思った。

 

それでも気になって調べ(?)を進めていくと、どうやら大野くんは歌がうまいらしい。さらにダンスもうまいらしい。ファンブログなどを参考にして見た動画は「Song for me」だったが、バラエティとは違う顔でキレのあるダンスを踊る大野智に、確かに成瀬領の片鱗を見た。いったい彼は、何者だ。どっちの顔が、大野智なんだ。何かが引っかかり、答えを探すように動画を片っ端から漁った。

 

嵐のDVDにも恐る恐る手を出し、「AAA 2008 in TKOYO」と「5×10 All the BEST! CLIPS」を見た。思いのほかいい曲が多くて驚いた。見られる動画をあらかた見終えた頃には、完全に「嵐」を好きになっていた。相葉すごろくでストッキング兄弟と化す嵐。紙の船で東京湾を目指す嵐。おバカ実験に興じる嵐。…なんだ、このかわいい男子たちは。

 

こうして地球上にまた一人、嵐オタクが誕生した。

2019/3/15