Arashiology

大野担の嵐オタクによる嵐論

第一章

Finally, the day has come ついに、その日が来た

 

最近、嵐の心の中に思いを馳せる時間が増えた。

 

それは忘れもしない2019127日。前夜に飲みすぎて寝坊していた私に、相方が「ねえねえ、嵐が活動休止だって」と爆弾を落としてからだ。

寝ぼけながらその言葉を聞いた私に、正直、驚きはなかった。

その証拠に、「嵐休止」の言葉が盛大に躍るポータルサイトのトップページをチェックする前に、かわいい動物をもふもふするツイッターを見て一瞬なごんでしまったくらいだ。

いつかこんな日が来るかもしれない。

そう思っていた大野担は多いと思う。

 

2017年の「忍びの国」キャンペーン以降、恐ろしいほどの静けさだった大野くんの周辺。翔くんのドラマ、松潤のドラマと続いて、例年のパターンから行けば、そろそろ自担ドラマなどが発表されてもおかしくないであろうタイミングで、ニノのドラマの発表があった時の絶望感は、おそらく大野担にしか分かるまい。本来なら喜んで報せを受け取っただろうニノのドラマ仕事。それもブラックな医者の役だ。大野担としては自担でこういうの見たかった。

 

次のドラマクールのキャストが出揃っていくごとに、焦りや不満が募り、それと比例するように、これでもかと、封切りから何か月も経っている「忍びの国」を応援する大野ファン。映画祭や応援上映の盛り上がりも、心がもやもやした状態では、痛々しくすら見えた。何かがおかしい。そういう思いをツイッターで吐き出すファンも少なくなかった。自担の不足を自給自足で補おうと、様々なハッシュタグで画像や動画を上げて慰め合うファンもたくさんいて、私もずいぶん慰められたし、その健気さに何度も泣きそうになった。

 

泣きそうになりながらも、何が原因で今の状況が起きているのか、という疑問は常に頭にあった。事務所の戦略なのか、本人の意向なのか。いずれにしても、今の状況ではこれまで同様に大野くんを応援することは難しい。他のメンバーの個人仕事が発表されるたびに焦りや嫉妬を味わうなんて、アイドルを応援するスタンスとしておかしいじゃないか。これでは真っ当に活動している他のメンバーに謂われなき恨みすら抱いてしまいそうだ。もしこれが、自担がモチベーションを失っているために生じている事態だとすれば、彼を応援する行為は虚しい以外の何物でもない。

 

この異様な静けさは、本人の問題なのか、それとも周囲の問題なのか。私はそれに耐えるべきなのか、抗議すべきなのか。その葛藤と戦いながら、とうとう2018年は終わってしまった。まさに、ファンとしての愛情と忍耐を試されたとしか思えない一年だった。正直、2019年分のファンクラブの年会費を振り込むかどうかもぎりぎりまで迷った。そういうファンも多かったと思う。

 

そうして迎えた2019年。

海外生活をしている私が年末年始の一時帰国から戻り、嵐の正月特番の録画をひととおりチェックし終えたタイミングで、爆弾は投下された。

 

先にも書いたが、驚きはなかった。むしろ腑に落ちた。「忍びの国」以降の不自然な状況に、ひとつの回答が与えられたからだ。結局、あの状況は大野くんの意志だったのだと。

不思議なくらい凪いだ心でファンクラブ会員へのメッセージを確認し、日本ではすでにTV放送されていた記者会見をネット経由で見た。いつもより少し低い声のトーンで今の状況や気持ちの推移を説明する自担を見て、「ああ、彼はやはり年齢相応の大人の男性だったのだな」と感じ、この状況にあっても決して失言せず、会見の主導権をマスコミに握らせず、彼をフォローするメンバーたちを見て、良いチームだなと改めて思った。

 

後日の報道では、有象無象がこの記者会見についてコメントし分析し憶測し、中には「マスコミは、もっとSMAP解散の影響や結婚問題などをツッコむべきだった」などという意見すらあったが、私の印象では、この会見に出席していたマスコミ関係者は様々な形でこれまで嵐と関わることの多かった人々で、嵐の休止発表に驚き、前後の経過はもちろん知りたいけれども、決して嵐を困らせたいわけではなかったのではないかと思う。結果として、会見でのマスコミの詰めは甘かったのかもしれないが、日本中が嵐の活動休止に驚きつつも、嵐の印象は汚れることなく、いわゆる「お茶の間の人々」がなんとなく納得してしまったのだから、嵐としては大成功だっただろう。

 

しかし、問題は「お茶の間の人々」ではないオタクである。

私は自分のことを嵐のファンではなく、オタクだと思っている。ただ彼らを好きで応援するだけでは飽き足りず、彼らの言動からその人間性や関係性、思考、生活などを想像し、勝手に感動したり萌え転がったりしているからだ。そういう面倒なオタクを惹きつけてしまうことが、嵐にとって幸か不幸か分からないが、これはもう、ファン個人の性向としか言いようがないので、勘弁してほしい。個人的な印象では、大野担はおしなべて妄想がたくましく、オタク力の高いタイプが多い気がする。

 

そんなオタクの長く果てしない思索の旅は、「お茶の間の人々」が納得したこの会見から始まったと言っていい。嵐ファンなら思い当たる人は多いだろうが、「あの曲に託されたメッセージはこういうことだったのか」、「あのときのあの発言の真意はこういうことだったのか」。嵐休止というひとつのアクションから、次々と判明するそれまでの彼らの言動の理由。そしてこれからも延々と続くだろう彼らのアクションに対する解読作業。

 

ファンのツイッターやブログを見れば、悲嘆絶望の阿鼻叫喚とともに、様々な解釈や分析が流れてくる。そのどれもがもっともな説得力を持ち、オタクの気持ちを揺さぶる。夜中に眠りが浅くなったタイミングで、ふと頭をよぎる、「大野くんの言う自由とは何だろうか」というテーマ。考え出すと様々な思考が取りとめもなく頭を巡り、結局夜が明けてしまう。やらなければならないことを片付けている合間、ふとした瞬間に思考の海に沈む自分。考えるのはもちろん嵐のことだ。彼らは会見で、休止発表までの経緯は語ってくれたが、そもそも大野くんはなぜ嵐としての活動を止めたいと思ったのか、そう思った具体的な理由は語ってくれなかった。彼はなぜそれを語らなかったのか、それとも語れなかったのか…。

 

そうやって止めどもなく行ったり来たり、積んだり崩したりする過程で、冷静に嵐の活動休止を分析するブログもいくつか見かけた。私は、嵐に関しては、玉石混交の記事からファンブログまで、何でも読んでみるほうなのだが、様々な文章を読むなかでも、分析系のものが一番自分にしっくりきた。

それは私が、休止発表以降、「自分にとって嵐とは」、を考え続けているからだと思う。そこを消化しないと、お休みに入る大野くんや嵐の「置き場所」が定まらないのだ。とどめに、「自分の好きなものを他人に理解してもらおうと語ることは、自分の思考や語彙を広げる行為だから、大いに語れ」(ニュアンス)というツイートを見て、背中を押された。

 

実は私は、どうして大野担になったのか、大野くんのどこが好きなのかをこれまで誰にも語ってこなかった。というか、仮に「大野くんのどこが好きなの?」と聞かれても、「存在」だの「全部」だのしか言わなかっただろう自分に気づいた。今更ながらだが、かつてないほど嵐や大野くんについて考える機会を得た今、自分にとっての嵐や大野くんという存在について、これまで考えてきたことをまとめてみようかなという気になっている。

2019/3/13